私たちの不安の原因はどこにあるのか?
人は誰しも「自分は、このままで大丈夫なんだろうか?」と不安になることがあるのではないでしょうか?
ダメな自分、どうしようもない自分が頭から離れず、「こうじゃない、そうじゃない」と、自分にないものを探し求めて、それを手に入れることができれば、いつかどこかで本当の幸せが見つかるんじゃないかと思い込んでしまいます。
オランダの絵本作家、レオ・レオニという方の作品に、『ペツェッティーノ――じぶんをみつけたぶぶんひんのはなし』(Amazon.co.jp商品ページ)という絵本があります。このペツェッティーノとは、イタリア語で「小さい断片・部分品(部品)」という意味で、この本の主人公の名前です。
ペツェッティーノは、自分とはなんてちっぽけで、なんて意味のない、なんて無力なんだと、いつも不安に思っていました。そこで、自分は他人の部品に過ぎないのではないかと思い至り、強いものや、空を飛べるもの、速く走れるもの、泳げるものに、「僕は君の部品なんじゃじゃないか?」と尋ねて回りました。けれども皆、口々に「部品が足りなくて、こんなに強い(飛べる・走れる・泳げる)わけないだろう?」と答えます。
そして、最後に洞窟にいる賢いもののところへ行き、同じように「僕はあなたの部品じゃないですか?」と尋ねます。すると、粉々島《こなごなじま》という島へ行くように教えられます。そうして船に乗って長い間、海を越えて、ようやくその島へ到着しますが、そこは木一本、草一本生えていない、とにかく生きてるものが一つもないところでした。
ペツェッティーノは、何かないものかと、島のあちこちを駆けずり回りますが、何も見つけることはできません。そして、とうとう疲れ果てて、崖から落ちて、こなごなになってしまいました。しかし――そこでやっと、ペツェッティーノは気付きます。自分もみんなと同じように部品が集まってできているんだと。
そのことがわかったペツェッティーノは元気を取り戻して こなごなになった自分自身をかき集めて、足りない部品は一つもないことを確かめると、ボートに乗って、もといた島に帰って、みんなと幸せに暮らしました――という内容です。
賢いものがペツェッティーノを自分以外、何もない粉々島に行かせたのは、それが他人ではなく自分自身を見つめ直すヒントだったからではないでしょうか?ペツェッティーノの迷いの原因は、自分が他人の何かであるという思い込みにあります。
はじめ、ペツェッティーノは、人と比べて「自分は誰かの部品じゃないか?」と、その不安の解決を、外にばかり求めていました。しかし、苦心の末に自分というものとまるごと向き合えたとき、「僕は僕なんだ!」と、このままで何の不足もないことに気が付いたのです。その瞬間、彼は心から安心して、島から帰ることができました。
どんなに長い間、探し求めても見つからなかったペツェッティーノの本心は、はじめから自分自身の中にあったのです。
以前に、二週間にわたる泊まり込みで行なわれる法話の研修会があったのですが、どうしても課題の法話原稿が書けないことがありました。翌日に発表があるにもかかわらず、原稿は一文字も埋まらないまま「何とかしなければ、何とかしなければ」と焦りは募《つの》るばかりでした。時計が夜の12時を回ろうとしたところで、そんな私を察してくださったのか、指導教官さんが声を掛けてくださいました。
「今の自分をさらけ出せばいい、そのままの自分を吐露してみたら?」
その一言で、張りつめていたものがスーッと緩んでいくのを感じました。
そのときの私は「いい原稿を書いて評価されたい」と、他人を気にすればするほど、何もできなくなってしまい、そうして自分をダメな奴と思い込んで落ち込む、というループの中に陥っていました。しかし、その指導教官さんは、私は私のままで「それでいいんだよ、そのままでいいんだ」と仰ったのです。
誰かと比較して、「何かになるべき自分がある。誰かの何かになろう」、そのような妄想は、自分で勝手に作り上げるものです。そういう、あれもこれもと求める心が静まった時、もうすでにここにあった幸せに気付けるのではないでしょうか。
どうしようもないときは、一つ一つ、自分の思い込みや決めつけを見つめ直すことで、自身の本来の姿に気付くことができます。今の自分と向き合い、できるできないにかかわらず目の前のことに打ち込んだとき、そこにある不安や悩みはそのままに、それを苦にしない一所懸命な自分というものが見つかるはずです。
この記事は、2022年9月に臨済禅黄檗禅公式サイト・臨黄ネットで公開されたものを加筆・修正したものです。