潙山霊祐 – 禅の名僧(9)

山田 真隆
2021/11/8

潙山霊祐(いさんれいゆう / 771~853)

「大器晩成」。

『老子』に原典があるこの言葉は、人の生涯を器にたとえて大人物ほど徐々に大成することを示します。今回の名僧は、この言葉がよく当てはまる潙山霊祐(以下、潙山)という人です。

唐代の禅僧というと、十代のころから仏教に縁があり、二十代そこそこで悟りを開いたという天才型の人が数多くいる中、潙山が師となる百丈懐海(以下、百丈)のもとを尋ねたのはいささか遅く、23歳を越えた時でした。

福建省福州長渓県で生まれ、姓は趙氏。幼いころは小乗の教えは大まかに、大乗の教えを精しく学んでいたところ、どうも納得いくものではなかったため、浙江省《せっこうしょう》の仏教の聖地として名高い天台山《てんだいざん》に行脚します。この時が23歳です。

その行脚中、或る人に「あなたの余生は縁有って、老いれば老いるほど見事になる。潭《たん》に逢えば止まり、潙《い》に遇えば住するでしょう。」と予言めいたことを言われます。この或る人とは『寒山詩』で有名な、かの寒山《かんざん》(生没年不詳)でした。天台山の国清寺《こくせいじ》に着くと、寒山と仲のいい拾得《じっとく》(生没年不詳)が出迎え潙山を特別扱いしました。文句を言う者があると、「この人は普通の人ではない。1500人の善知識《ぜんちしき》(仏法に導いてくれる人)である。」と言って取り合いませんでした。


やがて江西の百丈山に出向いて百丈に師事しました。ここからが潙山の禅僧としてのスタートです。以降、約20年にわたり潙山は百丈のもとで学びます。

百丈の門下に在った時、潙山は典座《てんぞ》という大勢の修行僧の食事を作る役を任されていました。

ある日、司馬頭陀《しばずだ》という諸方を広く見聞している在家の人が百丈のもとを訪れました。そして「最近行ったところに、南の潭州《たんしゅう》(湖南省の北部)がありますが、そこに大潙山《だいいさん》という豊かな素晴らしい山を見付けました。土地も肥えており広いので、そこならば1500人は修行できます。今は何もありませんが、是非その山を開いて大道場としてくれる力量の方はいませんか?」と言いました。

百丈は「そんないい山があるなら、おれが行って開こう」と言いましたが、司馬頭陀は「いやいや、あなたはこの百丈山のように枯淡(飾り気がなくさっぱりしている)な方だ。あの山は開けば物が豊かな場所なので、あなたには合わないでしょう。ですから、誰かお弟子さんの中でそれを切り盛り出来る人を紹介して欲しい」と返しました。

この司馬頭陀という人、寺になるような場所を探したり、禅匠の百丈に対しても「あなたは合わない」とはっきり言ったりして、単に信心深いというだけではなく、このやり取りからもただものではないことがわかります。

ですから百丈も、華林《かりん》という修行僧の中のリーダーを勤めている者を呼んでこさせました。司馬頭陀は、華林を歩かせたり、咳払いをさせたりとオーディションのようなことをさせましたが、どうも気に入らない。そこで典座の潙山を来させたら、一目で「この人だ!」ということで、大潙山を任せることにほぼ決まりました。

そうなるとリーダー的な存在の華林は納得がいかない。そこで華林と潙山のどちらがふさわしいか、修行僧の皆の前で公開テストをして決めることになりました。

その公開テストの問題は「浄瓶《じんびん》と言わなかったら、何と言うのか?」というものです。百丈が浄瓶を地べたに置いて二人にそう問いました。浄瓶とは、把手が付いていて口が鶴の首のように長くなっている、水指のような仏具です。

本来いかなるものにも名前はありません。名前はすべて人が名付けたものです。浄瓶もそう。百丈が、清浄なものである浄瓶を、不浄とされる地べたに置くという行為自体、名前だけでなくそれらに付いている清浄とか不浄とかの固定概念をも越えて、もの本来の在り方を問うことになり、ひいては自分本来の在り方を問うことにもなります。実に二人の力を量るのにはうってつけの問題です。

先に華林が答えて言います、「棒切れというわけにもいきませんな」と。
今度は潙山の番です。皆が固唾を飲んで見る中、どう答えたか?
なんと潙山は、浄瓶を足で蹴り倒して、さっさとその場から出ていってしまいました。
これを見た百丈は笑って大いに肯い、改めて潙山に任せることに決断しました。
(「祖師図・潙山踢瓶《てきへい》」東京国立博物館)

確かに、華林は巧みに言葉を言い換えました。ですが浄瓶を他の言葉で言い換えたところで、大して違いはありません。また別の言葉で呼ばれるだけです。対して潙山の行為は、浄瓶だけでなく百丈が設けた問い自体をひっくり返すぐらいの禅機《ぜんき、禅のはたらき》があります。

浄瓶について訊かれたことを、浄瓶だけの問題としてとらえた華林と、その奥にある人間の在り方を問うていることを看破した潙山との違いがここにありました。浄瓶が浄瓶と言わないのだとしたら、自分も自分と言わないでどう言うのか、どう生きるのか?という問いに発展しなければ禅ではありません。

しかも問うことは答えを求めることになります。その設問そのものを蹴り倒すことによって、求めるものではなく、すべて自分に本来具わっているという意味をも込められているのでしょう。


ともかく潙山は、大潙山を開いていくこととなりました。潙山という名はもちろん、この大潙山に住んだのでそこから後世に付けられたものです。こうして昔、天台山に行く途中、寒山に予言されたことも現実になりました。

大潙山は良い場所といっても、新しく一から寺を開くには相当な苦労があります。また弟子を育てるということは重大な責任です。そんな責務を負うより、むしろ百丈に選ばれることなく、そのまま典座の役をしていれば楽だったのかもしれません。それをわかっていて潙山という人はあえて困難に向き合う方を選んだのでしょう。潙山という大器が、ようやくそれに見合う舞台に立ちました。この時潙山は40歳を過ぎた年齢でした。

とはいえ、最初の20年間は誰も来ませんでした。年齢も60歳を過ぎ、さすがの潙山も、もう山を下ろうかとしていると、道端に2匹の虎がうずくまって道をふさいでいました。潙山は「師の命でこの山に来たが、誰も来ない。もしこの山を開く徳が無いのなら、わしを食うてくれ、まだあるのなら道を空けてくれ。」というと、虎は道を空けたので、山に戻ったところ、しばらくすると一人の修行僧が訪ねてきました。

それを契機に、やがて潙山の名声を聞きつけて次第に諸方から修行僧が集まり、いつの間にかその数は1500人を数えるようになりました。これも拾得がいった「1500人の善知識」ということを示します。


大潙山には、私は3回行ったことがあります。高い山の上にもかかわらず、頂上まで登ると広大な土地が広がっている珍しい地形です。確かにここなら1500人住むことが出来ると確信できるほどの広さです。今でも密印寺《みついんじ》という立派なお寺がありますが、残念なのは行くたびにお寺というより、大規模なテーマパーク的なものに境内が変わっていってしまったことです。

1500人にも膨れ上がった大所帯の潙山の門下からは、優秀な弟子が輩出されました。中でも「小釈迦《しょうしゃか》」と言われた仰山慧寂《きょうざんえじゃく》(807~883)が代表格です。あの虎との問答の後、初めて潙山のもとを訪れた修行僧が誰あろう仰山です。この師弟二人の法系は、二人から一字ずつ取って潙仰宗《いぎょうしゅう》と呼ばれ、現在では法系は絶えていますが、一時は父子唱和《ふししょうわ》師弟で親子のように問答を摺り上げながら悟りに導く、という独特のスタイルで中国禅宗の重きをなすに至りました。

『臨済録』の「行録」にもこの潙山・仰山の評唱《ひょうしょう》(古人の教えを品評し、説法すること)が付いているのは、この二人に認められることがステータスだったことの表れとも言われています。また臨済に、拠点とした河北の鎮州に行くように、予言じみたことを言って導いたのもこの仰山でした。

その他、潙山の法を嗣いだ人で有名どころは、桃の花を見て悟った霊雲志勤《れいうんしごん》(生没年不詳)、竹に石が当たる音で悟った香厳智閑《きょうげんちかん》(?~898)がいます。

潙山は自ら「水牯牛」《すいこぎゅう》(去勢された水牛のこと。去勢された穏やかな牛に仏心をたとえている)と称して、大潙山密印寺に住すること42年にわたり、ついに大中7年(853)1月9日に示寂しました。83年の生涯でした。


密印寺から車で25分ほど東に離れたところに、同慶寺《どうけいじ》という小さなお寺があり、そこに綺麗に整備された潙山の墓塔があります。私が行ったとき、同慶寺の御住職に案内をして頂いて墓塔、観音殿、祖師殿でそれぞれ読経しました。

潙山は寂する時、こう言い残しています。
 

師が遷化《せんげ》(亡くなること)しようとした時、大衆に云う、「わしは死んで後、山下に行って一頭の水牯牛となる。脇上に二行書して云う、潙山の僧、だれそれ、と。そうなった時水牯牛と喚《よ》ぶか、それとも潙山の僧だれそれと喚ぶか。もし潙山の僧だれそれと喚べば、どっこいそれは一頭の水牯牛だし、水牯牛と喚べば、それはどっこい潙山の僧だれそれである。お前たちここをどうするか」。(『祖堂集』巻十六)

「淨瓶と言わなかったら何と言うのか?」の問いを片付けた潙山らしい遺言です。人が付けた名前はあくまで仮のもの。そのものの真実を表すものではありません。それが仏とか祖といったものでさえも。だから潙山の僧だれそれといっても水牯牛といっても同じです。

本来の真実ではなく、仮のものに過ぎない名前に振り回されて悩むようなら、潙山が浄瓶を蹴り倒したように、私たちも心の中のそういうものを、その都度蹴り倒すことはできないでしょうか。そうなったら何と痛快なことでしょう。

なお潙山は大円禅師と勅諡《ちょくし》されました。

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