南陽慧忠 – 禅の名僧(10)

山田 真隆
2021/12/8

南陽慧忠(なんようえちゅう / ?~775)

もし自分の心を表現するとしたら、どうしますか?

禅では、心は不立文字《ふりゅうもんじ》と言われ、文字や形として表現したら的はずれになるとしています。そうはいっても的はずれになるのを承知で、敢えて表現しなければならない時もあります。その際、表現する上で余分と思われるものをすべてそぎ落とし、最もシンプルに心を表現した形が、「円相」です。
 

この円相を初めて示したと伝わるのが、今回の南陽慧忠(以下、南陽)になります。


南陽は、越州諸曁《えつしゅうしょぎ》(浙江省紹興府諸曁県)の人。姓は冉《ぜん》氏。名は虎茵《こいん》。年少の頃は、人と語ることもなく、また家の門前の橋を渡ることも無かったそうです。

16歳の時、禅僧が家の前を通るとき、渡ったことのない橋を渡って禅僧に礼拝して師の礼を取ろうとしました。しかし禅僧は、「師を求めるなら、広南の曹渓山に一善知識(六祖慧能のこと)がある、私はそこに同行することは出来ないから、君が自ら行け」(『祖堂集』)と指示し、六祖について禅を学ぶこととなりました。

若くして六祖についた南陽は、その法を嗣ぎ、六祖の示寂後は、五嶺・羅浮《ごれい・らふ》(広東省)、四明《しめい》(浙江省)、天目《てんもく》(浙江省)と諸山を歴遊し、南陽(河南省)の白崖山党子谷《はくがいさんとうすこく》に入り、40年余りの長きにわたって山門を下らなかったと言います。この南陽に長く住したので、地名から号をとり南陽慧忠と呼ばれています。

南陽は、南嶽懐譲《なんがくえじょう》・青原行思《せいげんぎょうし》・永嘉玄覚《ようかげんかく》・荷沢神会《かたくじんね》とともに、六祖門下の五大禅匠の一人として数えられています。

その禅のスタイルは、五大禅匠の中では異彩を放つもので、無情説法(金石・土木などの感情意識の無いものが説くとされる説法)を初めて説いたこと、また経論教学を軽視して随意に説法する南方禅を批判し、禅の教学的理解を深めていくことの必要性を説きました。

たとえば、南陽と紫璘供奉《しりんぐぶ》という僧との問答にその一端を見ることができます。

供奉というのは宮中に使える僧のこと。その紫璘が『思益経《しやくきょう》』という経典を講釈しようとした時、南陽は「経典を講釈するには十分にブッダの真意が分かって初めてできることだ。もしそれができなければどうして講釈などできようか。」といい、水を張ったお椀を持ってこさせ、その中に米粒を七粒入れ、さらに上には箸を一膳置きました。そして「これはどういう意味か?」と問いました。紫璘は答えることができませんでした。南陽は「私の意すらわからないのにどうしてブッダの真意などわかるものか。それでどうやって経典を講釈しようというのか?」と戒めたといいます。(『宗門葛藤集』「国師水椀」)

お椀に水を張り米粒を七粒入れ、その上に箸を置くことの意味は、おそらくはお椀は人の心、張られている水は仏心、米粒は妄念でしょう。それを置いてある箸=坐禅で取り出せということが言えると思いますが、そういうことよりも南陽が示したかったのは、経典にあることを経典の中だけの問題としてしか理解していない紫璘の姿勢を指摘したのだと思います。

経典の内容をどうやって実生活に活かすかが導き出されて、初めて経典というのは人の生きる糧になり得ます。無情説法や教学的理解の必要性を説いたのも、経典と実生活は直結するものだという六祖以来の頓悟禅を進めたものだったと思います。

また頓悟禅・平常禅はともすれば、なんでもかんでも悟りだと言ってしまいがちなところがあります。六祖の頓悟禅が世に広まるにつれ、そういう部分を南陽は危惧して先述のような禅のスタイルを標榜したのではと思います。


唐の上元2年(761)時の皇帝・10代粛宗《しゅくそう》(711~762)は南陽の名声を聞いて、勅令を出して長安の都に召し、師の礼をとりました。粛宗はあの楊貴妃とのロマンスで有名な9代玄宗の三男です。さらにその次の代宗(726~779)も同じく師の礼を取り、皇帝の師ということで国師と呼ばれました。

永く二皇帝の禅の師として仕えただけあって、粛宗・代宗との問答も多く伝わっています。

ある日、粛宗(年代的に代宗ではないかという指摘がある)は南陽に問いました、「百年後、何を求めるか」。

南陽は、「私の為に無縫塔《むほうとう》という縫い目のない墓塔を建てて欲しい。」と答えました。

粛宗は「その無縫塔とはどのようなものか?」と問いました。

南陽はしばらくじっと黙りました。そして「わかりましたかな」と言いました。
粛宗は「いやわからない」と答えました。
南陽は「私の弟子に耽源応真《たんげんおうしん》という者がおり、それがこのことを良く知っております。呼び出してその者に聞いてください」と応じます。

南陽が寂した後、粛宗は耽源を呼んで意味を聞きます。すると耽源は「湘の南、潭の北。中に黄金有りて、一国に充つ。無影樹下《むようじゅげ》の合同船。瑠璃殿上《るりでんじょう》に知識無し」と詩を作って無縫塔の答えとしました。(『碧巌録』第18則「忠国師無縫塔」)

国の端から端まで宝で充ちている、そして太陽が真上に来た時に自ずと影が無くなるように、本来人は妄念が無い乗合の船にみんなで乗っているようなもの。それに気付けば立派な瑠璃の御殿の中に知識=仏を探すようなことも無い、というような意味でしょう。

簡潔にいえば、何も求めるところなどありませんが、一国の皇帝はこういう無縫塔の心境で、心を修めるように百年でも二百年でも、国を平安の内に治めていただきたい、私の求めるところはそんなことです、と南陽は言いたかったのかも知れません。

求めるところが無いことをあえて無縫塔として示すことは、心が表現できないことをあえて円相として示したことと通じます。このように禅の教えは、心は表現できないと虚無主義に陥るのではなく、その中でどうにかして示してやろうとする祖師方の気概で紡がれてきたものでもあります。無縫塔の無の字も、決して何も無いという意味ではありません。

ちなみに南陽が示した円相は、耽源に伝授され、さらに潙仰宗の仰山慧寂《きょうざんえじゃく》に伝えられ、以降潙仰宗によって後代まで示されることになります。


都に召された南陽は、初め千福寺西禅院《せんぷくじさいぜんいん》に住しましたが、代宗の時代には光宅寺《こうたくじ》へ移りました。

粛宗・代宗の両帝は厚く南陽をもてなし、この厚遇に対しても、南陽は天真自然の本性のままに境涯を楽しみ、武当山《ぶとうざん》(湖北省)に延昌寺、そしてかつて40余年住んだ白崖山に香厳寺《きょうげんじ》(当時の名僧、一行《いちぎょう・いっこう》禅師が長安において示寂し、粛宗が葬送すると、山中に香風が漂って、一か月止まなかったので、寺名を香厳寺とした)を創建し、大暦10年12月9日に示寂しました。香厳寺に帰葬され、代宗皇帝より、大証国師と諡号されました。


この香厳寺へ私は2010年に一度訪れたことがあります。

朝8時に河南省南陽市のホテルを出発、10時半ごろにこのお寺に行くには必ず乗る浙川県《せつせんけん》のダム湖を渡るフェリーの乗り場に着きました。このフェリーが生活感満載のフェリーで、洗濯物や干物にする魚が干してありました。乗船して周りを見ると、「白崖山」という名の通り、白い岩肌の山々がずっと続きます。30分ほどの乗船で着岸すると、もうすぐそこが香厳寺です。

潙山霊祐《いさんれいゆう》の項で述べた香厳智閑《きょうげんちかん》という人がありますが、その人はここで南陽の墓守をしていて、ある日掃除の時跳ねた石ころが竹に当たった音で悟ったということで、香厳寺と言えば竹を連想することが多いと思いますが、今でもあたり一面は竹林で覆われ、かなり鬱蒼としています。

建物は近年再建されたものではなく、明・清代のものが残っており風情があります。特に大雄宝殿(日本でいう本堂)には中国最大級の壁画があります。午後一杯参観し、またフェリーに乗って戻り、そこからバスでホテルに戻るともう夕方の6時。ここへ行くのは一日仕事です。行かれる方は十分な時間を取っていくべきでしょう。

page up