趙州従諗 – 禅の名僧(8)

山田 真隆
2021/10/8

趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん / 778~897)

この「禅の名僧」を具《つぶさ》に読まれてきた方なら感じることと思いますが、禅僧の生き方というのも千差万別です。今回はその中でも特筆すべき生き方の禅僧の紹介です。

778~897という冒頭の生没年、思わず二度見しませんでしたか?よく見ると120歳を数えています。

趙州従諗(以下、趙州)という禅僧の特徴の一つが、この類まれなる長寿です。紹介してきた祖師の寿命を見ていくと、六祖が75歳、馬祖が79歳、百丈が65歳、そして前回紹介した臨済が60歳そこそこですから、それらの約二倍近くの時間を生きたことになります。語録として『趙州録』がありますので、それに従い人物を追っていきたいと思います。


生まれは山東省なので臨済と同じ。俗姓は郝《かく》氏、趙州というのは河北省にある地名で、そこの城市である趙州城の東にあった観音院(東院)に住持したので、禅僧としての号も趙州となりました。僧名は従諗なので、趙州従諗と呼ばれています。臨済とは奇遇にも、出身地も近ければ、活動の拠点とした観音院も臨済院と近いということになります。

幼少のころにすでに剃髪出家し、まだ具足戒という正式に僧侶となる過程を経ないうちに出家の師に連れられて南泉山(安徽省池州市)に南泉普願《なんせんふがん》(748~835、以下、南泉)を訪れます。

この南泉という人、師はすでに紹介した馬祖道一で、その門下の中でも「ただ普願のみ有って独り物外《もつがい》に超《こ》ゆ」と激賞された逸材です。その人のもとにまだ幼い趙州が行き言葉を交わしたところ、南泉は即座に趙州の宗教的な才能に気付き、自分のもとで修行することを認めます。それから数日のうちに趙州は悟りを開いたといいます。

そんな入門して日が浅い若き日の趙州も、頓悟禅のテーマともいえるあの問いを南泉にぶつけたことがありました。

いわゆる「平常心」をテーマとする問答です。

趙州「道とは何ですか?」

南泉「平常心が道だ」

趙州「修行とはそれを目指していくことでしょうか?」

南泉「それを目指していくと、その途端に外れてしまう」

趙州「それを目指さなかったら、どうして道であることが知れましょうか?」

南泉「道とは知るとか知らないとかではない。知るとは妄覚であり、知らないは無記だ。もし本当に目指すことのない道に達したら、それはちょうど妨げるものがない大空のようなものである。それをどうこう言うことはできない。」

これを聞いた趙州は言下に悟ったといいます。(『無門関』第19則「平常是道」)

非常に長い人生を送った趙州でしたが、畢竟趙州の禅のスタイルはこの問答に集約されていると思います。目指すことは、今はその目指す状態に無いということ。その目指す状態にするために修行するとなると、やはり段階的・漸修的になります。目指していくと外れるというのは、そんな理由です。

だから平常心とは目指したり学んだり知ったりする目標ではなく、まさに今の自分を、まるごと深く肯定することに他なりません。巷間よくある「平常心」の使われ方、「平常心で頑張ります」の誤謬もここにあります。「平常心で」という時点で平常心である状態を目指すことになるからです。

さらに、この誰にでもある今の自分。それを知ろうというのも目指すことと同じで、知ろうとせずとも本来わかっている自分のことを殊更に知ろうとするのは妄覚、つまり錯覚しています。誤った認識です。また本来知っているはずの自分のことを知らないというのも無記、事実がわかっていない、誤った認識ということになります。だから平常心というものは、他の学問なら命題となるような、知るとか知らないという概念ではとらえられないものということを徹底しました。


その後、未修だった受戒を嵩山にて済ませ、再び南泉のもとへ帰ると、それからどこへも行かず数十年南泉に親しく従って修行の日々を送りました。当時の禅僧のスタンダードとして、禅を学ぶ前に仏教学を学びますが、それも学んでいないというのも、珍しいのではないかと思います。禅の宗匠ともいえる南泉に若くしてついているため、その必要がなかったのかもしれません。

師の南泉が晩年を迎えると、師のもとを離れて遍参し、諸方で問答を交わし悟りを深めていきました。

その頃になると趙州は、「南泉斬猫《なんせんざんみょう》」(『無門関』第14則)という公案にも出ているように、南泉の門下の僧の中でもひときわ抜きんでた力量を持っていたことが書かれています。

そして南泉が亡くなった時、趙州はすでに57歳。普通ならもう先が見えた年齢ですが、趙州という人はここからがまたすごい。3年間師の喪に服した後、さらに60歳から歴参を重ね悟境を深めるため再行脚に出ました。

60歳からの再行脚ということで、諸方で問答の相手となるのは一世代若い和尚ばかり。息子や孫のような年下の相手に向かって問答を重ねています。だからというわけでもないと思いますが、その問答はどれも、おじいさんが孫に言い含めるような、やさしく円熟味に満ちていながら透徹した言葉になっているように見受けられます。人を導くにも、荒っぽい行いではなく、巧みに平易な言葉を自由自在に駆使するのが、これまた趙州の特徴です。そのことを譬えて「口唇皮上《くしんぴじょう》に光を放つ」と称えられました。 


その際の問答の一例として臨済とのものがあります。

趙州が臨済院に着いて脚を洗っているところへ、臨済が問いました、「如何なるか是れ祖師西来意」、禅の質問としては一般的でつまりは禅とは何か?を聞いている質問です。趙州は「ちょうどわしは脚を洗っているところだ」と答えます。その時、臨済は近づいてきて耳をそばだてて聞こうとしました。趙州は「会得するならそのまま会得しなさい。会得しないなら何もしゃべるな。何になる。」と言いました。臨済は袖を払って去っていきました。趙州は「三十年も行脚して、今日はうっかり人に注釈をしてしまった。」と言って問答は終わります。

若き日の、師・南泉との平常心の問答を彷彿とさせます。そもそも問うということは知ろうとすること。どうにかして知ろうとする臨済に対して、厳しい言葉や特別な難しい言葉を使うわけでもなく、「ちょうどわしは脚を洗っているところだ」とあくまでも日常の平易なやりとりで応ずる趙州のスタイルで、知る知らないの問題ではないことを明快に示します。

この問答が為されたとき、年代ははっきりとは分かりませんが二人の状況から推測すると、臨済は40歳から50歳、趙州は70歳から80歳ぐらいです。臨済はすでに一寺を構え弟子もいる老師、一方趙州は行脚中の一介の老雲水ということになりますが、この問答では若いといえども老師の臨済を、老雲水の趙州がたしなめるといった構図で、本来と立場が逆転しています。

臨済のスタイルは俗に臨済将軍と言われるように、勇猛果敢で大きな声や相手を打ったりすることにより導いていくものです。主な帰依者は地方軍閥の軍人だったので、勇ましい行動で示さないと相手にしてもらえないという事情もあり、そうなっていったとも言われています。また勇ましいだけでなく、社会の上層部のそれなりに教養がある人達を相手にするときには、誰にでもわかるような話だとこれも相手にされません。然《さ》は然《さ》りながら、臨済といえども趙州と比べると、まだそこに頓悟禅を理屈として見ている一縷の隙があるように思います。

対して趙州にはそんな隙は見当たりません。あえて苦言を呈すなら言葉が平易すぎて逆に惑わされる、それを読み取るには受ける側の力量が大いに問われるということでしょうか。因みに『臨済録』にも同じ内容の問答がありますが、趙州と臨済の立場を入れ替えたものになっているのもまた興味深いです。


80歳になってようやく河北省の趙州にある観音院の住持をします。そこで40年の長きにわたり布教をし、120歳の長寿を以て遷化しました。

この趙州、あることを通じて現在の私たちのような禅僧とも縁が深い人でもあります。禅の修行をするところを専門道場と言いますが、その専門道場で師家という指導者から出される公案の、最初の問題がこの趙州のものが使われることがあります。

いわゆる「趙州狗子《じょうしゅうくし》」の公案です。数ある公案の中でも、最も有名と言ってもよいものだと思います。

趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に還って仏性有りや也た無しや。」州云く、「無。」(『無門関』第1則)

ある僧が趙州に「犬には仏性が有りますか、無いですか?」と聞くと、趙州は「無」と答えたというものです。この「無」という答えに毎年臨済宗の専門道場では、雲水さんが頭を悩ますことになります。最高のものに最初に出くわすのですから、悩むのも仕方ありません。また悩ますぐらいですから、ただ単純に有無を言っているわけではありません。これもやはり質問してくる、知ろうとして画策してくる者に対して、そうではないという態度を示しています。

犬が出てくるのにも意味があり、当時犬というのは動物の中で最も卑しいものという認識がありました。地面に落ちているものを拾って食べる様子からそう見られていたようです。日本語でも「犬死に」や「~の犬」など、例えとしてあまりいい意味に使われていません。

そんな卑しい犬にも仏性は有るかという問いで、犬にあるぐらいだったら、全部の生き物にあるだろうという質問者の意図があるのです。問うにしても自分のことをきちんと問わないで、横着な尋ね方をしてくる者に対しても、慈悲心を以て老獪さ円熟さが極まった「無」という一語で答える趙州。若き日に師南泉と問答した際の頓悟の到達点が、この究極にして極めてシンプルな一語に他なりません。

趙州が住した観音院というお寺。今でもその場所にありますが、柏林寺《はくりんじ》と名が変わって趙州在世当時の貧乏寺とは全く違い、ものすごい大伽藍が建てられ、臨済寺と並び、参詣者も絶えない河北省の仏教の名所となっています。

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