般若心経散策(2)

山田 真隆
2023/12/22

「度一切苦厄」~厄介者の活かし方~第

 
この「般若心経散策」は、『般若心経』の語句を取り上げて、より詳しく見ていくコンテンツです。

前回「度一切苦厄」一切の苦厄を度す、という言葉の問題点を見て、その問題こそが『般若心経』の要につながることを確認しました。

今回は、その「苦厄を度す」ということが、私たちの生活の中に具体的にどのように存在し、解決していくことになるのか、を学んでみたいと思います。


昭和を代表する禅僧として名高い山田無文老師『生活の中の般若心経』(春秋社刊)にこんな話があります。ちょっと長い話ですが、辛抱してください。

無文老師が、北海道にあるお寺の法要に出るために渡道した時のこと、士幌駅《しほろえき》(1987年に廃駅)から帯広駅に向かう列車の中で、30歳ぐらいの青年に話しかけられます。ずっとこっちを窺っていたと思ったら、いきなり「ご坊!」と呼びかけたその青年は、こう切り出しました。

(以下、原文引用)
 

「人間にはいろいろな悩みがあるが、金のことや名誉のことや仕事のことなら大概蹴とばせる。だが一番むずしいのは男と女の問題だ。おれは人妻に愛されておるんだが、おれも好きなんだが、どうしたもんだろう」
と訥々《とつとつ》として訴え出しました。わたくしは面白いことをいう青年だと思って、ついニコッと笑ってしまいました。

しかしその青年はわたくしをいつまでも笑わせませんでした。それほど真剣さが、その目にこもっていたのです。

「それはむずかしい問題だが、あんたは一人者か」
「おれにも妻がある」
「それはなおむずかしい。愛情は人間にとって最も大切なものだ。本当は好きな人の出来るまで結婚しなければよかったんだが、そうもいかんだろうしなあ。両方が、つまり四人がよく理解しあって、奥さんを取り換えた人もあるが、そんな例はまれだし、自分たちだけが幸福になって、相手の夫や子供、自分の妻子、その他周囲の皆を泣かせることも考えものだしなあ」

(中略)

家庭生活は今のままでどちらも破壊することなしに、高く清らかな精神の愛情を守ることはできんものだろうか。肉体の幸福などは瞬間的なもので、心の愛情こそが永遠なものだ。そういう永遠の愛情に生きることはできんものだろうかと。
彼はわたくしの言葉を一々うなずいて聞いていたが、眼には涙が光って来ました。(中略)やがて大きな拳で何度か目を拭いました。

「ご坊!」、青年は再び顔を上げて、わたくしを見つめ、言葉をかけました。
「仏教は生きた人間を救えますか」
「生きた人を救わなくちゃ。生きておるから悩みがあるんじゃないか。人間の世界はすべてが限られておるんだ。そこに絶えず行きづまりがあり悩みがあるんだ。ただ、心の深さにおいてのみ無限を発見することができる。そこにだけ人間の救いがあるんだ。
恋を貫いても苦しい。恋を捨てても苦しい。所詮、人間は苦しいものなんだ。その苦しさの真只中に限りないものを発見する。そこに救いがあるんだ。苦しさを前において、とやかくと眺めるから苦しいんだ。苦しさの中に飛び込んでしまえば、苦しさの中にいて、苦しさを離れることができる。それが救いというものだ。どうかすると人はそういう時、死の道を選ぶが、死ぬのは卑怯だ」
青年はじっと下を向いて考え込みました。

(中略)

青年はじっと下を向いて考えていましたが、たちまち顔を上げ、向き直って尋ねました。
「ご坊! 死ぬのはなぜ卑怯ですか?」
彼の眼にはいっぱい、涙があふれていました。
「結局、苦しさに堪えられなくて逃げるのだから卑怯だ。引き受けた仕事を苦しいからといって、途中で投げ出したら卑怯だろう。人生を途中で投げ出すのも同じことだ。芝居を見ていて、途中であまりにも悲しいからといって、外へ逃げだしたら、これも卑怯だろう。人生は結局芝居だ。苦しいこと、つらいことが、やがて一ばん楽しい思い出となる日もあろうじゃないか。終りまで忍ぶものは救われん、という言葉もあるが、今死ぬのは救われたんじゃない、負けたんじゃ。そう思いませんか」
彼はまた下を向いて考えこみました。

しばらくすると車掌が、終点の帯広に近づいたこと、下車の用意をすることなどを告げて回りました。彼は車掌を呼びとめ、切符を出して不足金を支払っていました。わたくしと話すためにいくつかの駅を乗越したらしいのです。

わたくしはいよいよ最後の言葉をかけねばならぬと思いました。
「人間が死ぬほど熱烈な愛情を誰かに捧げ得るということは、実に尊いことだ。そうした愛情は宝玉のように大切にしなければならぬ。
しかし、人間、たった一人のみを愛して、周囲の愁嘆も迷惑も何も感じないとしたら、どうであろう。その愛は盲目的というほかあるまい。或いは動物的というほかはない。或いは利己的かもしれない。
一人の人を死ぬほど愛される、その愛情をより多くの人々に注ぐことはできぬものであろうか。その人の夫にも、その人の子供にも、あんたの妻にも、あんたの子供にも。もし、あまねくすべての人々を愛されるほど、愛情が広められるならば、それを仏の愛というのだ。
自分を殺しても相手を愛さずにおれぬような、そんな清らかな愛情が、すべての人にそそがれたら、どんなに良いことであろう。そこにのみ人生の深刻な苦しさ淋しさを乗り越える、たった一つの明るい道がある。
古人がよく失恋から出家しておられるが、あれは決して卑怯で逃げたのではない。一人への愛情を、万人のほうへ転換することによって、救いを見出し、光明を発見したのだと思う。
あんたも、その尊い愛の目ざめを、もう一つ広く育ててもらえんだろうか」

「ご坊! ありがとう。努力します」
彼はもう手離しで泣いていました。
わたくしは彼の幸福と平安をひたすら念じつつ、帯広に下り立ちました。

(引用終わり)


無文老師も、この青年にかけた言葉の中に、苦しみを否定してはいません。
「苦しさの真只中に限りないものを発見する、そこに救いがある」と言っています。

そして「苦しさを前に於いて、とやかく眺めるから苦しいんだ、苦しさの中に飛び込んでしまえば、苦しさの中において、苦しさを離れることができる、それが救いというものだ」とも言っています。

ということは、「度一切苦厄」とは、また「五蘊皆空」とは、その苦しさの元である五蘊を出来るだけはたらかないようにして、苦しさを生み出さないようにすることではなくて、むしろ五蘊をさかんにはたらかせる、本来の五蘊のはたらきに立ち返るということになります。
そうすればおのずと、苦しい中にいても救われる世界がある、ということではないでしょうか。


五蘊も苦厄も、一見厄介者です。人間生活を破綻に向かわせる厄災です。が、その見方は所有している私たち自身が、そのはたらきを十分に信じていないことからくる、偏見なのです。

実はその厄介者こそが、人間を人間たらしめていることに気が付かなければなりません。
そして、そのはたらきを十分に発揮するように心がける必要があります。

またそうすると、『般若心経』の終盤に出てくる言葉に「能除一切苦」というのがあります。「能く一切の苦を除く」と書き下しますが、それは今、私が話していることと整合しないのではと思われるかもしれません。何しろ「除く」という言葉があるからです。

しかし、それも「除く」の本来の意味を見ることが肝要です。
「除」の本来の意味は、古いものを去って新しくすることです。つまり苦を自分から消すとか取り外すとか除《の》けるということではないのです。

(第3回へ続く)

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