般若心経散策(1)
「度一切苦厄」~厄介者の活かし方~第1回
この「般若心経散策」は、『般若心経』の語句を取り上げて、より詳しく見ていくコンテンツです。
今回取り上げる語句は「度一切苦厄」です。
理解を深めるための助けに、副題を「厄介者の活かし方」と付けました。
「苦厄」という、見るだけでいやなものを、『般若心経』では「度《ど》す」と言っています。「度す」とは、「救う」という意味で、そこから「活かす」と意訳もできます。つまり、「度一切苦厄」を言い換えたものが、副題の「厄介者の活かし方」となるわけです。
その苦厄を度すとはどんなことか?をこれからしばらく皆さんと一緒に学びたいと思います。
まずは、一切の苦厄を度す、という言葉の意味に入る前に、何がどうなって苦厄を度すのかという、文脈を押さえておきたいと思います。これは、
観自在菩薩が般若波羅密多を深く行じる時、五蘊《ごうん》は皆な空《くう》と照らし見て、一切の苦厄を度す。
(観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄)
という『般若心経』中の一連の文章の中に含まれています。
そして、ここでこの「度一切苦厄」の問題点も見えてきます。それは、観自在菩薩が般若を行じ、五蘊(こころの5つの作用、色、受、想、行、識)はみんな空であると見たならば、一切の苦厄を度す、という表現に、なぜなるのか?ということです。
そこは、五蘊・心が空であると見たならば、心にある苦しみや厄災は「消滅」する、とするのが一般的な発想であり、表現なのではないでしょうか。
それをわざわざ「度す」としている。つまり、苦厄を「救う」とか「活かす」ことになります。苦厄に苦しむ人を救うだったら話はわかりますが、苦厄そのものを救うというと、なんとも意味の通らない言葉です。
ならば、そんな意味の通らない言葉をわざわざ使う理由というのが必ずあるはずです。
となると、一般的な意味の取り方というのが、どこか間違っていることになります。
それは、「度一切苦厄」のどこなのか?
まずは苦厄という言葉をとらえなおしてみる必要がありそうです。
苦厄を生じる心の作用として、先ほど言った五蘊があります。苦厄を生み出す大元といってもいいでしょう。だから理屈からいえば、この五蘊、つまり心をコントロールして、作用させないようにすれば、極力、苦厄は生じないということになります。
といっても、『般若心経』には「五蘊皆空」とあるだけで、五蘊を否定するようなことは一つも書かれていません。苦厄を生み出す大元でありながら、五蘊を否定しない。これは『般若心経』の大前提です。
何度もいいますが、五蘊は人間の心そのものだからです。それを否定することは、ひいては人間の存在自体を否定することに他なりません。
以上を踏まえた上で、『般若心経』の注釈書として、あの白隠禅師が書かれた『毒語心経』《どくごしんぎょう》を見てみましょう。
『毒語心経』の「五蘊皆空」の項目にこう書かれています。
色蘊《しきうん》は鉄囲山《てっちざん》の如く
受想《じゅそう》は金剛剣《こんごうけん》の如し
行識《ぎょうしき》は如意宝《にょいほう》の如し
鉄囲山は仏教の世界観でいう、仏さまが居られる世界の一番外側を囲む山々、
また、金剛剣は仏の悟りや真理を表すもの、
如意宝も正確には如意宝珠といい、願いをかなえる宝石の意味です。
いずれも仏教では他に代えがたい有難いものの象徴です。
色受想行識という五蘊を、否定するどころか、むしろ有難いものとして白隠禅師も説いています。やはり五蘊は人間にはなくてはならないものなのです。
ということは、そこから生み出される苦厄も、即座に否定されるものではありません。五蘊が人間の心そのものであれば、苦厄もまた然り、人間の心そのものといえるからです。
『般若心経』というお経の内容は、否定に次ぐ否定です。その中で、五蘊も苦厄もなぜ否定されていないのか、ということにはこのような重要な意味があるのです。五蘊も苦厄も人間そのものを意味するからです。
それが「苦厄を度す」という一見意味の通じない言葉として表現されています。ゆえに、苦厄を度すとは、人間を度す、人間を救うということと、同じ意味を持つということです。
(第2回に続く)