この世に生まれるのは良いこと?悪いこと?
皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
Question :
仏教では「人間が生まれること」をどのように捉えているのでしょうか。歓迎すべき良いことだと考えるのでしょうか。避けるべき悪いことだと考えるのでしょうか。あるいは中立だと考えるのでしょうか。
(ペンネーム「ふたば」さんの質問)
Answer :
釈迦の教えでは、人間が生まれることは「良いこと」でもなければ「悪いこと」でもありません。私たちがこの世に生まれたのは単なる自然現象なので、それを良い・悪い・中立などと判定すること自体が無意味で傲慢なことです。
釈迦は「生きること自体が苦だ」と言いましたが、それは生きることの苦しみを実感し、そこから逃れたいとギリギリのところでもがいている人だけが感じることであり、そのような人の心にこそ、釈迦の言葉が響くのです。「苦しみに満ちた生」を「苦しみのない生」に変えていくところに仏教の存在価値があります。
仏教の世界観は「一切皆苦」、つまり「生きていること自体が苦だ」というものです。これは、キリスト教やイスラム教のような「神が私たちをお造りになった」と考える宗教と根本的に違っている点です。
キリスト教やイスラム教では、慈悲深い神様が、わざわざ「苦しめてやろう」などと思って人間を造ったはずがないと考えますので、「私たちが生まれてきたことは良いことである」「生まれてきたことには深い意味がある」「生きていることは無条件に素晴らしいことである」と言います。
それを逆に言うと、「その素晴らしい命を自ら絶つという行為は、神を裏切る犯罪行為であって悪事である」ということになります。ですからキリスト教もイスラム教も、「自殺した者は地獄に堕ちる」と言うのです(キリスト教は、最近になってこの教義を取り下げました)。
これに対して仏教、特に釈迦の教えでは、私たちは誰かに造られた被造物ではなく、たまたま偶然、この世に生まれ出てきた存在です。ですから、人間が生まれることは「良いこと」でもなければ「悪いこと」でもありません。
「中立」という言い方も変ですね。たとえば道端にたまたま石ころが落ちているのを見て、「ここに石が落ちているのは、良いことか、悪いことか、それとも中立か」と尋ねるのが不自然なのと同じです。石がそこに落ちていることは自然現象であって、私たちがそれを良し悪しで判別しようとすることそのものが無意味です。
それと同じく、私たちがこの世にいるということも、単なる自然現象なので、それを良いだの悪いだの中立だのと言って判定すること自体、私たち自身の傲慢な気持ちの表れだということになります。
最近、ベネターという哲学者の反出生主義が話題になっています。それによると「人がこの世に生まれてくることは常にその人にとっての災難であり、だから子供を生むことは良からぬ行為であり、子供は生むべきではない」と言うものです。
「この世に生まれてくることが災難だ」という点は、ある程度、釈迦の考えにも近いのですが、その自分の考えを世間全体に押しつけて、「子供を作ってはいけない」と(まるで自分が神になったかのように)世の中を動かそうとするところに、抜けきれない傲慢さを感じます。
釈迦は「生きることは苦しみだ」と言いましたが、それはあくまでそのことに気づいた人が感じる感覚であって、世の中の人全員が「生きることは苦しみだ」と気づかねばならない、などとは言いません。
この世には、生まれたことを良いことだと感じ、生きていることは素晴らしいことだと考える人が大勢いるが、その人たちを無理矢理説得して、仏教の考えに転向させねばならない、などとは言わないのです。
大方の人は、「人が生まれること、この世で生きていることは良いことだ」と考えています。それはそれでなんの問題もありません。
しかし、人が生きていることの背後に様々な苦しみが潜んでいることに気づいた人には、「生まれること、生きることは少しも良くないことだ」という実感が湧きます。そこで初めて、その人と仏教とが出会うのです。そして、その「苦しい生」を仏教の力で「苦しみのない生」に変えていく。そこに仏教の存在価値があります。
「人間が生まれることは、歓迎すべき良いことなのですか、それとも忌避すべき悪しきことなのですか」という問いは、実はとても呑気な問いです。
本当に生きる苦しみを実感し、そこから逃れ出たいともがいている人は、そんな問いを考える余裕もありません。「この苦しみに満ちた人生から、どうやったら安楽なところに行くことができるのか」と、そればかり考えるはずです。
そして、そういうギリギリのところに居る人にこそ、釈迦の言葉が響くのです。