日本のお坊さんについてどう思いますか?

佐々木 閑
2022/9/8

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

私はタイやスリランカの上座部のお坊さんを尊敬しますが、正直なところ日本の坊さんはあまり尊敬できません。日本のお坊さんに対して、先生はどう思われますか?

(ペンネーム「よねよねクラブ」さんの質問)


Answer :

上座部仏教では、律蔵《りつぞう》という僧侶の生活指針を守らなければ罰せられます。規則を守って生きる僧侶は立派に見えますが、決められた規則に従っているだけで「偉い」と即断することはできません。一方、日本仏教には律蔵がありませんが、規則がなくても自分自身で生き方を決めて、正しい道を実践されている素敵な僧侶が沢山おられます。ですから、「どちらとも言えない」というのが私の答えです。



日本の僧侶にとっては深刻な問題ですし、一般信者の方たちにとっても自分たちの宗教観を左右する重大問題ですね。

私は浄土真宗の寺の息子として生まれましたので、小さい時から、僧侶になって寺を継ぐという人生があたりまえの生き方だと刷り込まれて育ちました。そのまま何事もなく成長していたならきっと今頃、人並みの住職として寺の仕事をしていたでしょう。

(幸いなことに)その後いろいろな事があって、そういった世間的な慣習から抜け出すことができ、自分のやりたい事をやるという、ありがたい道を歩むことができました。ただこれも、私の努力の結果というよりも、偶然が重なってそうなっただけであって、本来なら寺を継いで住職になるという生き方をしていた可能性は高いのです。

そんな私の立場から見て、日本の僧侶が尊敬できるかできないか、と問われたなら、「どちらとも言えない」というのが答えです。これは決していい加減な意味で言っているのではなく、よくよく考えた結果「どちらとも言えない」と言っているのです。理由をご説明します。
 



スリランカや東南アジアのお坊様たちは、「律蔵《りつぞう》」という僧侶のための法律をしっかり守って暮らしておられます。律蔵の規則というのは何百もあって、たとえば「女性と付き合ってはならない(もちろん結婚もダメ)」「お酒を飲んではならない」「ぜいたくな私物を持ってはならない」「人に向かって乱暴で横柄な言葉を語ってはならない」「質素な三枚の衣しか着てはならない」などなど、暮らしの指針が細かく決められていて、守らない僧侶には罰が与えられます。

こういった決められた規則に従って生きているので、スリランカや東南アジアのお坊様たちは立派な姿で生きておられるように見えます。これはチベット、中国、台湾、韓国など、日本以外のすべての仏教圏においても大方同じです。

一方、日本の仏教では、この「律蔵」という法律が使われていません(これは奈良時代以降の日本仏教の歴史が影響しているのですが、今は置いておきます)。

律蔵のない日本仏教の場合、お坊様がどういう生活をするかは、一人ひとりが自分で決めていかねばなりません。宗派ごとに作った大まかな規則もありますが、非常に緩いものばかりで、律蔵の規則とは比べものになりません。

つまり、日本以外の仏教国のお坊様は、決められた規則にしたがって生きているのに対して、日本のお坊様だけは、何も規則がない中で、自分で考えて生き方を決めているということです。
 



さてそこで問題は、決められた規則にしたがって生きているお坊様と、何も規則がない中で、自分で考えて生き方を決めているお坊様のどちらが立派か、ということになります。

よくよく考えればお分かりと思いますが、決められた規則に従っているから偉いと即断することはできません。「規則さえ守っていればよいのだ。規則にないことなら何でもやっていいだろう」と考えるお坊様なら、その心の内は煩悩まみれでしょう。

実際、スリランカや東南アジアでも、姿や立ち居振る舞いは立派なのに、心は欲まみれといったお坊さんのことがよく問題になります。大方のお坊様は確かに立派なのですが、中には欲まみれの悪僧もいるのです。

一方、日本のお坊様の場合、律蔵の規則がなくて、しかも家族を持って一般人のように暮らすことが認められているため、外見上は間違いなくスリランカや東南アジアのお坊様に比べて堕落した姿に見えます。そしてそのような弛緩した世界の中で、顰蹙《ひんしゅく》を買うような行いをする僧侶が大勢いることも事実です。私もそんな悪僧を山ほど見てきました。

しかしその一方で、規則がなくても自分で正しい生き方を決め、その道を実践しておられる素敵なお坊様も沢山おられます。

与えられた規則を「はいはい」と守るより、自分で規則を定めて、それを守って生きる方がはるかに厳しい道です。それを実践しておられるお坊様は、スリランカや東南アジアのお坊様に勝るとも劣らぬ尊敬すべき僧侶です。



まとめて言えば、律蔵の規則に従って生きるスリランカや東南アジアのお坊様方は、「平均して立派」です。一方、規則のない中で、自分で生き方を決めねばならない日本のお坊様方は「心底堕落した悪僧から、自己を律して生きる高僧まで、様々な方が混ざった多様な世界」です。

ですから私は、日本の僧侶が尊敬できるかできないかという問いに、「どちらとも言えない」と答えるのです。

もし日本にいて、尊敬すべき立派な僧侶に会いたいと願うなら、願う本人が自分の方からそのような僧侶を探さねばなりません。大勢の堕落した僧侶に混じって、どこかに立派な僧侶がおられるのですから、ボーッとしていても会えません。

「日本の僧侶は尊敬できない」と絶望する前に、自分で立派な僧侶を探す努力をなさってください。必ずどこかで出会うことができるでしょう。 


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