天界の神々として生まれるのは「幸福」?

佐々木 閑
2022/8/8

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

六道の「天上道」についてお尋ねします。神々が住む天上道は「餓鬼道」や「畜生道」に比べれば過ごしやすそうだと思えるのですが、仏教ではなぜ迷いの世界とされているのか疑問です。閑先生、教えてください!

(ペンネーム「仏教初心者」さんの質問)


Answer :

仏教では「餓鬼や地獄に比べれば、天界の暮らしはずっと快適だ。だから天界に生まれることは幸福だ」とは考えません。それは比較に基づいた自己中心的な世界観に過ぎないからです。自分より不幸な人と比較することで幸福を感じるのではなく、「なにも求めない自分」になること。それが仏教が目指す真の幸福、「絶対の幸福」なのです。



まず「六道輪廻《ろくどうりんね》」について簡単にご説明します。すでに第6回のQ&Aで述べたのですが、復習です。

昔のインドでは、皆が輪廻という現象を信じていました。あらゆる生き物は、天(神々)、人、畜生(動物)、餓鬼、地獄という五種類の世界の中で生まれ変わりのサイクルを永遠に繰り返すというのです。これを「五道輪廻」と言います(後代になると「阿修羅」が加わって「六道輪廻」になります)。

いつまでも生き続けたいと願う人にとっては、輪廻は好ましいことです。しかし、「生きることは苦しみだ」と捉える仏教の立場から見ると、「いつまでも生きねばならない」輪廻は、永遠に続く苦しみの連続ということになります。ですから仏教では「輪廻の原動力である業《ごう》の力を消して、輪廻を止めよう」と考えるのです。
 



今回のご質問は、そういった輪廻の中でも一番上に来る天界と、下の世界である畜生や餓鬼や地獄を比べた場合、「天界の暮らしの方がずっと楽そうなのに、なぜ仏教ではその天の世界さえも好ましくないものとして嫌うのか?」というものです。

ご質問はもっともで、確かに天の世界はとても快適です。たとえば帝釈天とか梵天とか四天王とか、私たちがよく知っている天の神々は皆、自分たちの思いのままに優雅に暮らしています。

食べたいものも食べられず、毎日泣いて暮らす餓鬼たちや、血の池地獄でグツグツ煮られる地獄の生き物と比べたら、文字通り雲泥の差。快適さの違いは比較にもなりません。

ですから「あなたはどちらに生まれたいですか」と尋ねられれば、誰だって「天の方でお願いします」となるでしょう。

それならば、仏教の教えも「善い行いをして善業を積み、そのパワーで天に生まれましょう。それが私たちの目指す幸福です」ということになるはずですが、釈迦はそんなことは一言も言いません。「見かけは随分違うけれど、天界も地獄も、苦しみの海でもがいているという点では同じだ。真の安楽は、そんなところにはない」と説くのです。
 



ここで私たちは、「比較の幸福」と「絶対の幸福」という二種類の違った幸福観に思い至ります。

「餓鬼や地獄に比べれば、天界の暮らしはずっと快適だ。だから天界に生まれることは幸福だ」というのは「比較の幸福」です。

「下の者たちの不幸に比べれば私たちはまだましな暮らしをしている。だから私たちは下の者たちよりも幸福だ」ということですから、この幸福観のおおもとには「自分より不幸な者を見つけたい。そうすればそういった不幸な者と比較することで私たちは幸福感を感じることができる」という自己中心の世界観があります。これが「比較の幸福」です。

これに対して、「餓鬼や地獄に比べれば、天界の暮らしはずっと快適だ。しかしそう考えるのは、下を見下し、上をうらやむという私たちの傲慢な心が生み出す幻想だ。真の幸福は他者との比較ではなく、自分自身がより向上し、清らかな状態に変わっていくところにある。だから決して、より不幸な者との比較によって幸福観を感じてはならない」というのが「絶対の幸福」です。

輪廻世界の中だけを見ていると、幸福の基準は必ず「比較の幸福」になります。「あんな境遇にいるなんて、かわいそうに。それに比べて今の私のなんと恵まれていることか。ああうれしい」というわけです。

しかし釈迦は、そんな輪廻世界すべてが、生きる苦しみの上に成り立っていると見抜き、輪廻世界から抜け出して、「なにも求めない者になれ」と説きました。

なにも求めないのですから、他者との生活状態を比較しても意味がありません。他者との比較ではなく、「なにも求めない自分がいる」という状態そのものが幸福観になるのです。これが仏教が目指す真の幸福、「絶対の幸福」なのです。

輪廻を信じることのできない現代社会においても、「絶対の幸福」を求めることはできます。 

外部の誰とも比較しない。比較の対象は昨日の自分だけ。「昨日の私よりも今日の私は、欲望が少なくなり、怒らなくなり、より広く正しく世界を見ることが出来るようになった。それが私にとっての幸福だ」と感じることのできる人は、ブッダの教えを生きている人なのです。


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