老病死がなくなれば苦から解放される?

佐々木 閑
2021/8/22

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

仏教は「老・病・死」を人生の苦しさの例として挙げていますが、仮に科学の進歩で「老・病・死」が回避できるようになったら、どうなるのでしょう?

(ペンネーム「ふたば」様からの質問)


Answer :

お釈迦様は「老病死そのものが苦である」とは説かれていません。たとえ老病死がなくなっても、私たちの心に「煩悩」がある限り、苦しみは生み出され続けるのです。

 

とても大切な質問です。仏教では、苦しみの根本原因「老と病と死だ」と言いますから、それがなくなればすべての苦しみから解放され、究極の安楽が来ると思うのが普通です。

いつまでも若いままで病気にもならず、そして絶対に死なないということになれば、本当にうれしいことです。私だって、可能ならそんな気分を一度は味わってみたいと思います。

ただ、そこで1つ思い出さなければならないのは、お釈迦様は決して「老と病と死そのものが苦しみだ」とは言っておられないということです。ちょっと説明しましょう。
 



仏教には「四諦《したい》」という言葉があって、意味は「この世の四種の真理」です。
四諦の中身は(1)苦、(2)集、(3)滅、(4)道と言います。

(1)の「苦《く》」というのは、「この世の生き物はすべて、苦しみの中で生きている」という真理。老・病・死という避けがたい運命を背負い、欲望と自我意識でがんじがらめになりながら生きる私たちは、苦しみの海でもがき続けているのです。

(2)の「集《じゅう》」というのは、「その苦しみの原因は、私たちの心の内にある欲望や執着や憎悪などの様々な煩悩だ」という真理。自分自身の内にある煩悩こそが、苦しみの原因なのです。

(3)の「滅《めつ》」というのは、「その煩悩は自力で断ちきることができる。そしてそれを断ち切った時、私たちは苦しみの世界から逃れることができる」という真理。

(4)の「道《どう》」というのは、「その煩悩を断ちきるための方法は、釈迦の教えに従った生き方を実践することだ」という真理です。

全部まとめると、「釈迦の教えに従って生きるという方法により、私たちは煩悩を断ちきって、苦しみのない状態に到達することができる」という真理です。
 



ここで大切なのは2番目の「」です。

お釈迦様は「苦しみの原因は老と病と死だ」とはおっしゃいませんでした。「苦しみの原因は、私たちの心の内の煩悩だ」と言っておられるのです。

これは、言い換えるなら「苦しみの原因は、老と病と死そのものではなく、その老と病と死と直面した時の私たちの心のあり方だ」ということであり、そしてまた、「私たちのこころに煩悩がある限りは、たとえ老と病と死がなくなっても、日常の暮らしの一々が原因となって苦しみは生み出され続ける」ということです。

たとえいつまでも若く、健康で、死ぬことのない人生であっても、「欲望が満たされない苦しみ」「憎い人と争い続けなければならない苦しみ」「愚かな言動で他者を傷つけ、それを悔やむ苦しみ」など、無数の苦しみはどんどん襲いかかってきて、止むことはないでしょう。いつまでも死なない人生ならば、その苦しみも永遠に続くのですから、よけいつらくなります。
 



科学が発達して老病死がなくなれば、肉体的な苦痛は和らぎ、その分の苦しみは緩和されます。それはそのとおり。

しかし、究極の安楽が来ることはありません。自分の中に煩悩がある限りは、苦しみがついてまわります。究極の安楽に到達するには、お釈迦様がおっしゃったとおり、「自分の内にある煩悩を消す」こと以外に道はないのです。


 


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