寛容さを失った社会に必要な教えとは?

佐々木 閑
2021/7/8

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

コロナ禍を経て世の中がいっそう他者への寛容さを欠いたような気がしています。何か助けとなるような仏教の教えはありますか?

(ユーリさんの質問)


Answer :

世の中が寛容さをなくしているかどうか、はっきり返答はできませんが、自分自身が不寛容にならないためには「今の私の考え方には、我欲に基づく傲慢な思いが入り込んでいないか」と問い続けることが大切です。

 

世の中が寛容さをなくしているかどうか。白黒はっきりした返答はできません。

私が小さかったころ(60年近く前)、田舎の村は非寛容の世界でした。障害者を差別し、血筋・家柄を差別し、顔かたちを差別し、人と違った考えを持つ人を差別していました。しかもそれを「差別している」という意識なしに、あたりまえのこととして皆が普通に行っていました。

実を言えば、私の家族や親族たちも皆そうでした。当然そこで育った私も、そこになんの理不尽さも感じることなく、「人間には初めから、劣った人と優れた人がいる」などと思っていたのです。

それから60年かけて、ようやく今の自分にたどりつきましたが、これは自分で努力してそうなったわけではなく、世の中が「すべての人を同じ視線で見なさい」と私を教育してくれたおかげです。

確かにネットの中は根拠のない差別や罵詈雑言であふれていますし、コロナのせいで皆気が立ってカリカリしていますが、それでも60年前からみれば、人は随分優しくなりました。
 



私たちはどうしても、自分の置かれた立場に不満を持ち、「もっと良い暮らしがしたい」と欲求するものですから、「今の世の中は最悪だ」と考えがちですが、すべての人に良いところと悪いところがあるのと同じように、時代や社会にも、良いところと悪いところがあります。

大切なのは、社会の良い点と悪い点を正しく見極め、良い所を伸ばし、悪いところを改良していこうという意志です。「悪い時代になった。以前はもっと良かった」という思いばかりがつのると、それこそ時代に対する寛容性を欠いた、視野の狭い人間になってしまうのではないでしょうか。

「自分の我欲や偏見を捨てて、この世をあるがままに見よ」というブッダの言葉は実に奥が深く、理解したつもりでもまだまだ理解しきれない、甚深の教えです。

「今の私の考え方には、傲慢な我欲に基づく間違った思いが入り込んでいるのではないか」と常に問い続けて初めて、私たちは本当の意味での寛容さを身につけることができるのだと思います。


 


page up