妻子を捨てた釈迦の「出家」をどう考える?

佐々木 閑
2023/5/9

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

お釈迦様が妻子と離れて生きることを選択されたのは、どのような意味があるのでしょうか? 妻子の側から見たらどうなるのだろう?と考えてしまいます。

(ペンネーム「お釈迦様をより深く理解したい」さんの質問)
 


Answer :

釈迦の出家は、今までの暮らしの一切を捨てて未知の世界へと旅立つという意味では、「生きながらの自死」と言えるでしょう。生きることに絶望し、他に選択肢のない人が「自死するよりはましだ」と考えて取った最後の行動と考えるなら、ある程度の共感はできるのではないでしょうか。妻子を捨てた釈迦の在り方をどう見るか、という問題は、私たち自身がどれくらい広く、人の生き方を受容できるかを見定める鏡にもなっているのです。



お釈迦様は、カピラ城の王子としてお生まれになった方ですから、そのまま普通に暮らしていれば、いずれ王様になることが約束されていました。

しかし青年期になり、この世のあらゆる生き物は老と病と死を背負いながら生きねばならないということを実感し、たとえ王となって世俗の権力を手に入れたとしても、その苦しみからは決して逃れられないということが分かった時に、親も妻子も王子の身分も捨てて出家します。真夜中にこっそり城を抜け出して森の中に入り、何年もの修行を経て、遂に菩提樹の下で悟りを開いたのです。

このお釈迦様の半生を見ると、確かに宗教者としては立派な生き方をしているように見えるのですが、その反面、妻や子供(その時はまだお腹の中にいたとされています)を捨てて、一人で出家したという話には違和感を感じる方も多くおられます。慈悲深いはずのお釈迦様が、後に残された妻子の悲しみもかえりみず、自分勝手に出家してしまうのはおかしいではないか、という思いですね。

それは当然の感想だと思います。もし今、身の回りにそういう人がいたとしたなら、やはりみんなから非難されるでしょう。「少しは残された人の事を考えたらどうなんだ」「自分勝手にも程がある」といった声が聞こえてきそうです。ではこの、釈迦が取った身勝手とも思える行動はどう考えたらよいのでしょうか。

これは、「その人が、どれくらい生きることがつらいと感じているか」という問題なのです。

普通に生きていれば、誰だって家族への情愛を感じます。そして「愛する家族を悲しませたくない」「家族こそが私の一番の宝だ」といった優しい思いを持って暮らしています。人としての当然の情でしょう。しかし様々な状況に置かれる中で、人はその、「家族を大切にしたい」という思いを越えるほどの絶望感にとらわれることもあります。

いつの世でも自死する人はおられますが、家族を置いて自死なさる方は誰だって、家族への想いに後ろ髪を引かれながら、それでもどうにも仕方なく悲痛な気持ちで最後の選択をなさるのです。

釈迦の出家も、一種の自死です。今までの暮らしの一切を捨て、未知の世界へと旅立つという意味では「生きながらの自死」なのです。

たまたま正しい道を見いだして悟りを開くことができたからよかったのですが、もし修行が失敗していたらおそらく本当に自死なさっていたのではないかと思います。それほどの強い動機があったからこそ、家族さえ捨てざるを得なかったのだと考えれば、釈迦の行動が多少なりとも理解できるように思います。
 


 
夫に捨てられた妻の悲しみ、父に捨てられた子のつらさを考えれば、釈迦の行動は冷血非情です。しかしそれは、自分の欲望のための邪悪な行動ではなく、他に選択肢のない人が、自死するよりはましだと考えてとった最後の行動だと考えるなら、ある程度の共感はできます。

どの程度共感できるかは、その人その人の人生の経歴によります。これまでに本気で自死を考えるほどの閉塞感、絶望感を経験したことのある人は、全面的に共感できるでしょう。「なるほど釈迦の気持ちはよく分かる」とおっしゃると思います。

穏やかな人生を無事に歩んでこられた方は、理屈では分かっても実感として釈迦に同意することはできないかもしれません。「そうは言っても、やはり妻子を見捨てるというのはひどすぎる」とお感じになるでしょう。

もちろん、どちらが正しいか、などという問いは無意味です。人は、経験したことによって違った世界観を持つものなので、生き方の選択に良し悪しなどあるはずがないからです

ただここで大切なのは、自分の価値観、倫理観では理解できないような行動であっても、別の感性で生きている人、別の感性で生きざるを得ない人から見れば、それが理の通った行動である場合もあるという事実を知っていることなのです。

同じ価値観で生きている人どうしが共感するのは簡単なことです。しかし、もし私たちが真の意味で慈悲深くあろうとするなら、「違和感のある生き方を選択している人」に対しても、その違和感の理由をしっかり考えよう、理解しようという姿勢で接することが大切です。

妻子を捨てた釈迦の在り方をどう見るか、という問題は、私たち自身がどれくらい広く、人の生き方を受容できるかを見定める鏡にもなっているのです。

 



 
 

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