ブッダと親鸞の教え、両方受け入れるには?

佐々木 閑
2023/4/9

皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
 

Question :

ブッタの仏教と親鸞聖人の教えは真逆であると思いますが、両方とも受け入れるにはどのように理解したらよいのでしょうか。

(ペンネーム「かみさか」さんの質問)
 


Answer :

ブッダは「自分で努力する(自力)」と説き、浄土思想では「他者の力にすがる(他力)」と説きます。しかし「自己中心の世界観を捨て、平穏で静かな境地に達する」という目的は同じなのです。2種類の違う教えがある時、「どちらか一方が間違っている」と考えることで対立が起こります。しかし「真の安楽をもたらしてくれる教えは、どれもみな真理だ」と考えれば、自分と違う教えを信じる人々に対しても、理解と敬意が生まれるのです。



お釈迦様の教えは、自分の努力によって、心に内にある「苦しみを生み出す原因」つまり「煩悩」を断ち切って、真の安楽を目指すというもの。もっと短く言えば、「自分の力で自分を変えよ」ということです。

これに対して法然上人や親鸞聖人は全く別の道を説きます。

「自分の力で自分を変えることができるならそれに越したことはないが、そのような困難な道を歩めるのは特別にすぐれた人だけである。我々凡俗の者が、そのような道を歩むことはきわめて難しい。しかしそのような力弱き我々をなんとか救いたいと思った阿弥陀様が、自分の修行のパワーを私たちに回して下さって(これを「廻向する」と言います)、そのお陰で私たちは自分で努力しなくても、悟りを開いて真の安楽へと向かうことができるのである」というのが法然上人や親鸞聖人の浄土思想の教えです。

ここには、「自分で努力する」(自力)と、「他者の力にすがる」(他力)という、全く異なる道が示されています。それをそのまま並べて見れば、質問者の方がおっしゃるように「真逆」です。

ですから、釈迦の教えに従って生きようとする人にとっては、他力にすがる浄土思想は、仏教ではない別の宗教だということになるでしょうし、浄土思想の信者の方々から見れば釈迦の教えは、できないことを要求する非現実的な理想論、ということになるでしょう。

実際、そのような立場で、釈迦の教えを軽視する浄土思想信者や、浄土宗・浄土真宗を「仏教ではない」と言ってけなす釈迦の仏教の信者(現代ではテーラワーダ信者と呼ばれています)も見かけます。

2種類の違った教えがある時、「必ずどちらか一方だけが真理であって、他方はニセモノだ」という理屈が成り立つなら、こういった対立が起こっても仕方ありません。お互いに争い、戦い、最後は殺し合いの戦争にまでエスカレートすることもあるでしょう。

しかし宗教が「教団の勢力を競い合う組織対立の世界」ではなく、「一人ひとりがそれぞれに真の安楽を得るための道」だと考えるなら、「必ずどちらか一方だけが真理であって、他方はニセモノだ」という論理そのものが成り立ちません。

「一人ひとり異なる人生を歩んでいる個々人にとって、真の安楽をもたらしてくれる教えは、どれもみな真理だ」というのが、本来あるべき宗教観だと思います。そしてそれに従うなら、自分と違う教えを信じている人たちに対しても、理解と敬意が生まれるのです。
 


 
ご質問を受けて、ブッタの教えと親鸞聖人の教えを両方とも受け入れる道を考えてみましょう。

こういった「真逆」の教えがあって、どちらにもそれなりの理があるように思える時、私たちが取るべき道は、「おおもとに戻って考える」ということです。ここで言う「おおもと」というのは、仏教が考える一番の問題、つまり「私たちはどうやったら自分を変えることができるのか」という問いに対する答ということです。

この問いに対して、釈迦は「自分の努力によって変えることができる」と言いましたし、親鸞聖人は「阿弥陀の力を信じれば変えることができる」と言いました。

重要なことは、どちらの道を選ぶにしろ、結果として私たちは、自己中心の世界観を捨て、欲望への執着をなくし、他者に悪意を持つことなく、平穏で静かな境地に達することができるようになるという点です。つまり、ブッタの教えと親鸞聖人の教えは、到達するための手段が違っているだけで、目標とする人物像が全く同じなのです。

これは実はとても凄いことです。世の多くの宗教が、商売繁盛、健康増進、家内安全、念願成就といった、まわりの環境が自分に都合よくなることを願っているのに対して、ブッダも親鸞も、そんなことには目も向けず、自分の心を変えて平穏な状態にすることを唯一の目的としているのです。

一見対立するように見える二つの教えも、おおもとに戻って考えれば、実はこの世で一番近くにいる仲間同士、ということが分かります。そしてもちろん、どちらを選ぶかは人それぞれの選択に依ります。

相手をやっつける快感に酔って、いらぬ争いを起こしている宗教者たちの姿は実に悲しいものです。釈迦の教えと親鸞聖人の教えは決して互いを排除するものではないということを理解していただきたいと思います。

(これはあくまで釈迦と親鸞聖人という個人の思想を言っているのであって、富や権力にこだわる教団の姿はまた別の話なのでその点、ご留意ください)

 


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