円覚寺境内の桜

鈴木大拙が出会った人々( 5 )釈宗演-後編

蓮沼 直應
2023/3/20

哲学者の見た禅僧

釈師は日本仏教の禅宗の長で、通訳を含めて2時間ほど、仏教、特に仏教の多様性についての質問に答えてくれた。それはとても興味深かった。……彼の性格は学者タイプで、どちらかというと禁欲的で、洗練されすぎてはいないが、ヒンズー教のスワミ(1)のようなみすぼらしさはなく、とても魅力的であった。私たちが帰るときには、彼は我々の来訪に感謝し、友人ができたことに深く満足した様子であった。……彼は日本で最も学識のある代表的仏教者であると評判であったが、先にも述べたように見ることと読むこととは全く違うのだから、実際に対面できたことは価値ある経験であった。

これはアメリカの哲学者、ジョン・デューイ(2)の書簡の一節です。彼は20世紀初頭にアメリカで起こったプラグマティズム(3)という思想の代表的な哲学者です。彼は1919年に妻と一緒に来日し、3月4日に鎌倉を訪れ釈宗演老師と相見しています。上記の文章はその時の様子を書簡に綴ったものです。
 

私は鎌倉へ行って師の寺を訪問した。私は嘗て師の様に武勇的精神と共に内的精神を具備した人を見たことがない。……師は禅宗の教義の精神を充分に理解した哲学者であるが、師の風貌は実践的な人の風貌である。

この一節はドイツの哲学者、ヘルマン・カイザーリンク伯爵(4)に旅日記に記されたものです。彼は1911年に始めた世界一周旅行の中で日本を訪れ、当時東慶寺(5)に住していた宗演老師と相見しています。伯爵はそこで老師が弟子たちの坐禅指導に当たっている様子を目の当たりにし、老師の峻厳な一面を上述のように記したのです。
 

シカゴの万国宗教会議

釈宗演老師は、伝統的な禅宗の修行を異例の速さで終え、若くして円覚寺派管長となった方です。その伝統的宗門の禅僧のもとをデューイやカイザーリンクといった海外の哲学者が訪れるというのは、いささか不思議な出来事のようにも感じます。しかし、デューイが記しているように、宗演老師は当時のアメリカにおいては既に名を知られた禅僧でした。それは宗演老師自身の国際的活躍が為した一つの結果でした。
 
明治25年、今北洪川老師の亡き後を継ぎ、円覚寺派管長となった宗演老師は、本山事務をつかさどると同時に、円覚寺の専門道場に在って僧俗の指導に当たっていました。この頃、宗演老師の禅僧としての力量は、早くも宗門の外に知られるところとなっていました。
 
明治26年(1893年)、アメリカのイリノイ州シカゴにおいて、コロンブスのアメリカ大陸上陸400年を記念する万国博覧会が開かれることとなりました。この万博では当時の最先端の技術によって建てられた展示場が立ち並び、新時代の都市の様相を呈していたといいます。開催国であるアメリカにとって、この万博が自国の技術力を誇示する絶好の機会であったことは間違いありません。しかし、この万博は物質的文明の進歩と同時に、人間の精神性をも広く取り上げることを企図していました。
 
その方策として、5月から10月までに「世界諸大会」と呼ばれる全18分野の大会が併せて開催されました。婦人大会、新聞雑誌大会、医学大会など多くの分野がある中で、世界の宗教についての大会が「万国宗教大会」でした。そして、8月27日から10月15にかけて開かれたこの万国宗教大会の会期中、9月11日から17日間に渡って「万国宗教会議」が開かれました。それは世界の宗教の代表者が一堂に会して、それぞれの宗教の真理を互いに発表し合うというものでした。そしてこの万国宗教会議に、日本仏教の代表者として招かれたのが円覚寺の釈宗演老師だったのです。
 

宗演老師の演説

日本から仏教代表として渡米したのは、真言宗の土宜法龍(6)、天台宗の芦津実全(7)、浄土真宗の八淵蟠龍(8)、そして臨済宗の釈宗演老師の四人、さらに通訳として野口善四郎、野村洋三が随行しました。アメリカで開催されるこの会議については、当初キリスト教の優位性を誇示するための企画ではないかと懸念されていました。しかし実際には世界の各宗教の代表者がそれぞれの宗教の真理について発表することのできる開かれた会合でした。
 
3000席が用意されたホールには4000人の聴衆がつめかけ、会は想像を上回る活況でした。宗演老師はこの会議において、二つの演説をしています。「仏教の要旨並びに因果法 The Law of Cause and Effect as Taught by Buddha」、そして「戦ふに代ふるに和を以てす Arbitration instead of War」という題目です。宗演老師のこれらの演説は特に聴衆に感動を与えたと言われており、日本の仏教が欧米世界に知られるきっかけとなりましたが、このときの宗演老師の講演原稿を英訳した人物こそ鈴木大拙居士だったのです。
 
この会期中、宗演老師はアメリカ人の哲学者、ポール・ケーラス(9)と出会い、そのことが契機となって、その後日本の禅が世界に弘まっていきます。宗演老師はケーラスの「科学と矛盾しない宗教」という考え方に同調したので、彼等の交流は帰国後も続いていきます。その交流が、のちに鈴木大拙居士の渡米として結実したのです。
 

アメリカ講演の旅

宗演老師の国際的活動はさらにこの後も続きます。宗演老師は、明治38年7月にアメリカへ渡ります。各都市を巡って仏教についての講演を行い、さらにはワシントンD.C.にてルーズベルト大統領と会見もしています。アメリカを出たのちは、ヨーロッパ諸国を訪問、さらにはかつての修行の地であるセイロン、インドの仏跡、香港、上海を経て翌年9月に帰国します。
 
この旅は、サンフランシスコのラッセル夫妻の招待によるものでした。このラッセル夫人(10)は明治35年に来日し、坐禅に関心があったため宗演老師の下で参禅修行を行いました。彼女は白人で初めて参禅した人物として知られていますが、この夫人が宗演老師をアメリカに招いたのです。
 
日本の臨済宗が欧米世界に伝道を行ったのは、この宗演老師の講演旅行が嚆矢となります。とはいえ、いきなり現地の人に参禅指導を行ったということではないようです。宗演老師がまず講演のテキストとしたのは『四十二章経』(11)でした。これは禅宗で重んじられている経典で、修行生活上の訓戒を示す経典です。万国宗教会議のときと同様、宗演老師はまず仏教修行の基礎から伝えていこうと心がけていたようです。
 
こうしたアメリカでの旅程に同行して通訳を務めたのは、在米8年目の鈴木大拙居士でした。彼は大統領会見の折にも通訳で同席していました。
 

アメリカ伝道の先駆者

こうして仏教の発信に尽力した結果、帰国後も海外から宗演老師を頼って来日してくる人が現れるようになりました。1914年にはイギリス人のカービーという人物が、円覚寺で出家得度しました。これは臨済宗における初の白人の得度と言われます。また、アメリカで宗教学を研究していたビアトリス・レーン(12)という女性は、宗演老師の講演が機縁となって、のちに来日して鈴木大拙の妻となっています。
 
禅僧として、幼少期より伝統的な修学・修行を積んだ宗演老師でしたが、その有り余る力量は、自身を宗門のうちに留めることを良しとせず、宗門外はおろか海外へもその教化を広げて、禅の国際化に大きく寄与したのでした。
 
禅僧としての宗演老師については、さらに語るべきことは多くあります。しかし、海外へ仏教を発信するという近代的事業の突破口を開いた宗演老師は、まさしく大拙居士にとっては参禅の師であると同時に、自身の歩んでいく道を切り開いた偉大な先駆者でもあったのです。

『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第6回「ポール・ケーラス」は、2023年5月20日頃に掲載予定です


  1. スワミ:ヒンドゥー教の僧侶。
     
  2. ジョン・デューイ(1859~1952年):アメリカの哲学者。ヴァーモント州バーリントンに生まれる。ヴァーモント大学を卒業し、ミネソタ、ミシガン、シカゴ、コロンビアの各大学で教授を歴任する。プラグマティズムの思想を集大成した。
     
  3. プラグマティズム:19世紀後半から20世紀にかけて主にアメリカで提唱された哲学思潮。ある対象の概念の本質は、自分に対してどのような影響を及ぼすのか、という実際的な作用にこそあるという考え方。例えば、「硬さ」という概念の意味は、引っ搔いても傷がつかないという効果のことであって、そういった私たちの行動との関係をもたない抽象的な「硬さ」には意味がないと考える。
     
  4. ヘルマン・カイザーリンク(1880~1946年):ドイツの哲学者。エストニアの諸侯の一族に生まれる。ハイデルベルク、ウィーンで学ぶ。ロシア革命の結果、財産を失い、ドイツに移住する。1920年には「智慧の学校」と呼ばれる私塾を開く。世界各地を巡って『或る哲学者の旅日記』を残した。
     
  5. 東慶寺《とうけいじ》:鎌倉市にある円覚寺派寺院。1285年、北条時宗の室、覚山志道尼が開山、開基は北条貞時。鎌倉尼五山の第二位に列し、明治までの600年間、縁切寺として女性の離縁を請け負った。
    →臨済宗円覚寺派 松岡山 東慶寺
     
  6. 土宜法龍《どきほうりゅう》(1854~1923年):名古屋出身の真言宗僧侶。明治2(1869)年、高野山にて真言・天台などの教義を学ぶ。明治39年に、仁和寺門跡御室派管長、大正9年に、高野派管長となる。また真言宗各派連合総裁、高野山大学総理などを兼任した。
     
  7. 芦津実全《あしづじつぜん》(1850~1921年):和歌山県出身の僧。当初東京で荻野独園に師事し、その法を嗣ぐ。当初天台宗の僧として万国宗教会議に出席したが、明治31年には臨済宗に転籍し、明治36年に永源寺派管長となる。
     
  8. 八淵蟠龍《やつぶちばんりゅう》(1848~1926年):浄土真宗西本願寺派の僧。詳細未詳。
     
  9. ポール・ケーラス(1852~1919年):アメリカの哲学者。次回詳述予定。
     
  10. ラッセル夫人:サンフランシスコの商人アレキサンダー・ラッセルの夫人、アイダ・ラッセル。詳細未詳。
     
  11. 『四十二章経』:古来、(史実に反し)初の漢訳仏典とみなされてきた経典。漢訳経典の中から倫理的、実践的教説を42章にまとめたもので、特に禅宗においては『仏祖三経』の一部として重く用いられた。
     
  12. ビアトリス・レーン(1878~1939年):鈴木大拙の妻。次々回詳述予定。

写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
https://www.engakuji.or.jp
 

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