新緑と円覚寺居士林

鈴木大拙が出会った人々( 6 )ポール・ケーラス

蓮沼 直應
2023/5/20

アメリカの宗教哲学者

19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカの哲学として、日本ではプラグマティズム(1)が有名です。プラグマティズムの哲学者の知名度に比して、ポール・ケーラスという哲学者の名はそれほど広く知られていません。
 
彼は日本の禅者が国際的に活躍する上で、大きな助けとなった人物ですが、日本でケーラスの名が語られるのは、ほぼ釈宗演老師や鈴木大拙居士との関わりにおいてのみで、彼がどういった人物であるのか、詳しく知っている人は少ないと思います。そこで今回は、アメリカの哲学者ポール・ケーラスについて紹介したいと思います。
 

シカゴの万国宗教会議

ポール・ケーラスが日本の仏教者と初めて関わりをもつことになったのは、1893年に開かれたシカゴの万国宗教会議(2)に際してでした。日本仏教の代表として渡米した釈宗演老師の演説を、ひしめく聴衆の中で聞いていた人物こそ、ポール・ケーラスと彼の上司であるエドワード・へゲラーでした。
 
彼らは会議の合間に宗演老師をシカゴ近郊のラサール(3)にあるヘゲラー邸に招待し、そこで宗演老師と親しく談話を交わし、ここに仏教をめぐる彼らの交流が始まります。そしてその熱は万国宗教会議後も冷めることなく、彼らは太平洋をまたいで交流を続けます。
 
ケーラスは会議後に執筆した自著『仏陀の福音』(4)を、日本の宗演老師の下に送り届けます。そうして、その英語の著作を日本語に翻訳したのが鈴木大拙居士だったのです。アメリカ人の書いた仏教書は、新しい時代の仏教を模索する日本の仏教者にとっても興味深いものだったのです。そして、このことが大拙居士の人生に大きな転機をもたらすことになったのです。
 

オープンコート社

アメリカにおいて、シカゴ万博が開催される以前から仏教を取り扱っていた雑誌は、オープンコート社の『オープンコート』と『モニスト』という二つの雑誌(5)のみだったようです。この出版社を開いたのはエドワード・へゲラーで、彼は社主であると同時に誌面の監修を勤めていました。そしてヘゲラーの下で雑誌の主筆と編集を担っていたのがポール・ケーラスです。仏教は当時のアメリカ社会には未だほとんど認知されておらず、彼らは営利よりも仏教の紹介それ自体を目的としていました。
 
もともとへゲラーはラサールという町で亜鉛の鉱山を経営している実業家でした。彼はキリスト教社会のアメリカにあって、伝統的なキリスト教に満足することができず、別の宗教的信仰の可能性を探っていました。
 

ポール・ケーラス小伝

では、ポール・ケーラスという人物はどういう経歴の人物だったのでしょうか。ケーラスは1852年、ドイツのイルゼンブルクという町に生まれます。プロテスタント(6)の牧師の子として生まれたケーラスは、幼い頃からキリスト教の教育を受けて育ったものの、伝統的なプロテスタントの教えには納得ができず、独自の宗教観をもつようになったといいます。
 
ケーラスはその後、現在ポーランドに属しているシュチェチンという都市の実科学校マリエンシュティフトに通い、さらにそこからドイツ各地の諸大学で学び、最終的にはチュービンゲン大学(7)で哲学博士の学位を取得しました。その後、プロイセン軍に入り予備士官になったのち、学校教師を経て、ドレスデンの兵学校で軍人の教育を担当することになりました。ここで問題が起こりました。
 

ケーラスとヘゲラーの出会い

ケーラスはその頃『科学倫理学及び宗教中における純正哲学』という冊子を発行しました。その本は、伝統的なキリスト教の教義を批判して、宗教について独自の見解を述べたものであり、それが軍の長官の目に触れて、結果ケーラスは諭旨免職となってしまったのです。
 

そうしてケーラスはドイツに居場所を失ってしまい、英国を経由して1884年にアメリカへと渡ったのでした。彼は当初ニューヨークに滞在しながら、「一元論及び改善論」という論文を発表しました。そして、のちにその論文を評価して、ケーラスを自らの出版社に招聘した人物こそエドワード・ヘゲラーだったのです。
 

1887年にケーラスはオープンコート社にて雑誌『オープンコート』の編集を担当するようになります。宗教哲学の専門家をメンバーに加えたことで、同社はさらに1890年に『モニスト』という学術誌も発行するようになりました。
 

一元論的宗教

そうして共に働くこととなったヘゲラーとケーラスですが、彼らが求めた信仰の在り方は「モニスト」という誌名にも現れているように、「一元論」的なものでした。キリスト教においては、創造主である神と被造物である人間が明確に区別されています。神と人間は明確に本質を異にする存在で、いわば二元論的な関係にあります。へゲラーとケーラスはそうした二元論的な宗教ではなく、一元論的な宗教を求めていたのです。そして万国宗教会議で宗演老師の演説を聞くことで、仏教こそがその一元論的な宗教であることに彼らは気づいたのです。
 
大乗仏教では、仏と衆生との区別を設けますが、それらの区別は本質的、決定的なものではありません。「一切衆生悉有仏性」(8)や「草木国土悉皆成仏」(9)という語を重要視してきた日本の仏教は、人間だけでなく、人間を取り巻く大自然すべてが仏性である、仏心の現れであるという考えを持っていました。そのような点に着目すれば、仏教は「仏」の一元的世界を信じる教えであると言ってよいと思います。まさしく彼らが共鳴したのは、日本仏教のもつそういった「一元」的な性格だったのです。
 

科学的宗教

そして「一元論的」であることに加え、もう一つ彼らが重要視したのは、「科学的」であるということです。日本が幕末の動乱の最中にあった頃、アメリカは既に産業革命を迎えていました。世界を物理学的な原因と結果によって捉えようとする科学的な認識のもつ力が、いよいよ強く信じられる時代でした。
 
そうした科学の時代にあって、宗教の教えのみが独断的なドクマ(10)であることは受け入れられない、そう考えた彼らは「科学の宗教 – religion of science」というものを求めるに至りました。これは、宗教があくまでも原因と結果の関係という、人間理性で把握可能な「科学」でなくてはならないということを意味します。そして、彼らは宗演老師の説く仏教こそが、科学と矛盾しない宗教であるということに気づいたのでした。
 
仏教は釈尊が因と果を冷静に分析することによって始まった宗教です。もちろん大乗仏教になると、人間理性で捉えられる因果関係を超え出た内容を説く教えも生まれてきます。しかし宗演老師はシカゴの会議において、「仏教の要旨並びに因果法」という演説で仏教を紹介しました。すなわち、宗演老師は大乗仏教のもつ超越的な面ではなく、仏教の基本としての因果(11)の教えを語ったのでした。つまり、因果の関係を徹底的に分析することで、未来の人生は自分自身の行いの結果であると断言したのです。
 

Heaven and hell are self-made. God did not provide you with a hell, but you yourself.
天国と地獄を造り出すのは自分です。地獄を用意したのは、神ではなくあなた自分なのです。

(釈宗演の演説より)

科学的宗教を求めていたケーラスとヘゲラーにとって、宗演老師の演説はまさしく一種の啓示に聞こえたと言っても過言ではないでしょう。
 

東洋思想を求めるアメリカ人と鈴木大拙

ラサールという片田舎における彼らの活動は、伝統的なキリスト教に対して「科学の宗教」という理念を掲げることにありました。シカゴの万国宗教会議における宗演老師との邂逅は、まさしく彼らの掲げていた理念が、仏教において古くから現実化していたことを証明したのであり、その感動は大きかったものと思います。
 
そうして彼らは仏教のみならず東洋の思想に、みずからの立脚地を求めるようになり、そのことが結果として鈴木大拙をアメリカに渡らせることとなり、大拙居士はその十年に及ぶ在米生活でその後の活躍の基礎を築いたのです。

『禅からZENへ〜鈴木大拙が出会った人々』は隔月(奇数月)連載でお送りします。第7回「ビアトリス・レーン」は、2023年7月20日頃に掲載予定です


  1. プラグマティズム:19世紀後半から20世紀にかけて主にアメリカで提唱された哲学思潮。ある対象の概念の本質は、自分に対してどのような影響を及ぼすのか、という実際的な作用にこそあるという考え方。例えば、「硬さ」という概念の意味は、引っ搔いても傷がつかないという効果のことであって、そういった私たちの行動との関係をもたない抽象的な「硬さ」には意味がないと考える。
     
  2. 万国宗教会議:明治26年(1893年)、コロンブスのアメリカ大陸上陸400年を記念してイリノイ州シカゴにおいて開かれた万国博覧会に付随して開催された宗教者の会議。「世界諸大会」と呼ばれる全十八分野の中の一分野として8月27日から10月15日にかけて「万国宗教大会」が開かれ、特にこの会期中の17日間に「万国宗教会議」が開かれ、各宗教の代表者がそれぞれの宗教について論じあった。
     
  3. ラサール:アメリカ合衆国イリノイ州の北部に位置する都市。シカゴからはおよそ100kmの距離にある。
     
  4. 『仏陀の福音』:原著はPaul Carus, The Gospel of Buddha, Open Court 1894。翌1895年、鈴木大拙によって邦訳され、佐藤茂信を発行者とし、非売品として刊行された。鈴木大拙にとって最初の出版物となった。
     
  5. 二つの雑誌:『オープンコート』は毎月1回発行で内容は信仰的、『モニスト』は年に4回発行で内容は学術的という区別があったという。
     
  6. プロテスタント:16世紀以降、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンらによって主導された宗教改革運動によって成立した教派の総称。ローマ・カトリックが教皇中心主義を採ったことに対して、プロテスタント諸派は聖書中心主義を採る。
     
  7. チュービンゲン大学:現在エバーハルト・カール大学チュービンゲンと称する。1477年に設立されたヨーロッパ最古の大学の一つ。中世にはルターの宗教改革運動の拠点ともなった。
     
  8. 一切衆生悉有仏性:臨済禅においては「一切衆生、悉く仏性有り」と読み、生きとし生けるものに仏性(仏となる可能性)が宿されていることを示す。
     
  9. 草木国土悉皆成仏:「草木国土、悉く皆成仏す」と読む。人間のみならず、人間を取り巻く草や木などの環境世界もまた人間と同じように仏となることを意味している。日本仏教の文献において語られる言葉である。
     
  10. ドクマ:宗教上の教義のことで、特に固定化されて柔軟性を欠く無批判な信仰のことを指す。
     
  11. 因果:原因と結果。仏教ではすべてのものは原因があって生じるという縁起の理法を説く。

写真提供:臨済宗円覚寺派 大本山 円覚寺
https://www.engakuji.or.jp
 

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