書は心画たり

野田 芳樹
2022/10/22

形は大事 そこに心をこめることは もっと大事

今回は、私が書道に取り組む上で大切にしている言葉をしたためました。それにまつわるお話を皆さまにお伝えします。この言葉は私が小さいころ書の師匠からおそわった教訓です。

私は小学1年から中学3年まで、書家の叔母から「習字」を習っていました。その後高校生から25歳の頃までは書の道からは離れていましたが、25歳から再開。学生の時に引き続き今でも叔母が師匠ですが、以前と違い「習字」ではなく「書道」を修めることとなり現在に至ります。

「習字と書道は違うの?」という疑問を抱かれた方もいるかもしれません。解釈は人によっても違いますが、私は似て非なるものだと捉えています。
 

どういうことかと言えば、習字は文字通り「字を習うこと」であり、文字を正しい書き順で、正確に、誰が見ても「整っている」と思えるように書くことを目指します。つまり、文字をきれいに見せる技術や形式を学ぶことを目的としているのが習字と言えるでしょう。
 
一方で書道は、書を研鑽する道のり自体を楽しむもの。字の形がきれいに見えるようになることは結果論であって、目的ではありません。私は、その道を歩む中で自分自身の精神を養い、日々の暮らしに心をこめてゆくことに大きな意義があると考えています。


大森曹玄老師という禅僧の著書『書と禅』に、次のような言葉が引用されています。

書家、錬筆あるを知りて、錬心あるを知らず、けだし点画の工は錬筆より生じ、風品の高きは錬心より生ず」(中林梧竹)

「錬筆」とは、古典や師匠の作を真似て点や線を迷いなく正確な形で書けるようになることです。言い換えれば、技術を鍛錬すること、すなわち習字の領域だと言ってもよいでしょう。一方「錬心」とは、心を鍛錬することであり、書道の世界です。つまり先の言葉は、「技術を磨くことが点画の巧さを際立たせ、自身の心を養うことが作品の品格を高める」と解釈できます。
 

「書家、錬筆あるを知りて、錬心あるを知らず」とは、技術や形の精度のみを追い求める書家は多いが、一方で自身の日々の心持ちが作品に大きく影響を与えることを忘れ、心を養うことをおろそかにしている人がなんと多いことか、という嘆きと捉えられます。私自身、とても耳の痛い言葉だと受け止めています。

「形は大事 そこに心をこめることは もっと大事」と小さい頃から言われていながら、自分は小ぎれいな字を書くこと、またその結果誰かに褒められたり、展覧会で入賞することなどの「形」にばかりに固執してきたきらいがあったと反省させられます。
 
皆さまは、書に限らず日々の行動の中で、「形式や体裁にばかり目が向き心がこもっていないな」と思うことはないでしょうか?もちろん、形を調えることを否定したいわけではありません。しかし、そこに心がこもっていなければ、書の作品も日々の暮らしもハリボテのように虚しいものになってしまう気がするのです。


では、「心をこめる」とはどういうことか?私自身この問いにかねてから参究してきましたが、先日とある書家の指導のあり方を目の当たりにしたとき、その答えのヒントを垣間見ました。

それは、書の錬成会を受講した時の話です。(錬成会とは、大勢の書家が集まって合同でお稽古をする会のことです)その日は約50名の書家が集まり、講師陣の中には、その年米寿を迎えた老先生がいらっしゃいました。その方は足元が少しおぼつかず、耳も遠いようで補聴器をつけています。しかし、受講生が大勢いるにも関わらず、一人ひとりの元へ歩み寄って「素敵な書ですねえ」「若い方とお稽古していると、私も刺激になりますよ」などと丁寧に言葉をかけてくださいます。

錬成会の様子。皆で切磋琢磨します。

私は、展覧会で良い賞を獲ろうと意気込み、躍起になって書いていました。そこへその先生が来てくださり、一言。

「ちょっと僕が書いてみますから、見ていてください。」


おもむろに筆を執り、お手本を書いてくださいました。老齢を感じさせないほどダイナミックな筆さばきで、描かれてゆく線も洗練され尽くしています。「どうやったらこんな書がかけるのだろう……?」と見とれていると、書き終えた先生がまた一言。

力まず、心が躍るような書を目指しましょう。楽しむことを忘れずに


この言葉には非常にハッとさせられました。自分は書に取り組んでいる時、心躍っていただろうか?展覧会の結果ばかりに目が向き、そこに心は入っていなかったのではないか?と大いに反省しました。 それと同時に、書の技術だけではなく、人として大事な心のありようを示してくださる方の存在の有難みを改めて噛みしめました。


書は心画たり」という言葉があります。「書の表現は、そのままその人の心をあらわす」というほどの意味です。先生のように、書そのものと真摯に向き合って取り組み続け、後続の人たちにも率先して綿密な指導を施す度量と優しさを湛えることで、人格が陶冶され、それが書にも現れてくるのでしょう。

先生の言う「楽しむこと」とは、書を通じて自分の内側を探究し、人として円熟できるよう日々心がけるという意味なのだと考えます。展覧会に入賞するなどという「表面上の形式」は二の次でいい――今ではそのように思うようになりました。

錬成会で書いた作品は展覧会等に出し、入選・入賞したら飾られます。

錬成会が終わり、余韻に浸りながら帰る道中、ふと「そういえば昔も似たような気持ちになったことがあったな」と思い出したことがあります。

今から6年ほど前、私の師匠(先の叔母です)が経営する書道塾の月謝に対して、私が口をはさんだことがあります。その書道塾は週2回のお稽古で月謝が3,000円と格安なため、「もう少し値上げしてもいいんじゃない?書道続けるためにはお金もかかるんだし……」と生意気にも提案したのです。叔母の返答はこうでした。

私は稼ぎのためじゃなく、単純に書道が好きで、その魅力を伝えたくて塾をやってるの。お金が理由で書道ができないっていう人がいたら私は悲しいから、このままでいいのよ。


この言葉を聞き、塾経営という「形」の裏にある師の想いを汲み取れなかったことを大いに恥じ入りました。それと同時に、自分が昔から通っている塾が師の「できるだけ多くの人に門戸を開いて、誰でも書道に触れられる環境を作りたい」という思いやりを基盤にして成り立っていることに、誇らしさと有難さを感じたことも思い出されます。

錬成会の話にしても塾経営の話にしても、共通するのは、先生方は日ごろから書をこよなく愛し、「多くの人に書の魅力を伝えよう」と日々、邁進することを楽しみとされているという点でしょう。書に向きあい、人と向きあい、自らと向きあい、日々の稽古を通じて「錬心」を欠かしません。心がこもっている指導や場、作られるものごとには温かみが加わり、周りの人々の気持ちを惹きつける力を持ちます。師匠方の心映えに魅力を感じていることが、私が書道を続ける最大の原動力です。


ここまでは書道の話をしてきましたが、私は「道」とは特別なものではなく、私たちの日常生活そのものだと考えています。日々の暮らしの中で、知識や技術を学び、形式を身につけることは大切です。時には試験に合格して何かの資格を持ったり、展覧会やアワードなどで表彰され名誉や名声を求めることが必要な場合もあるかもしれません。しかし、いっそう大事なことは、そこに心がこもっているかを省みることではないでしょうか。

「形は大事 そこに心をこめることは もっと大事」――私自身、師から頂いたこの言葉を改めて胸に据え、皆さまとともにこれからも「錬心」していきたいと思います。





*この文章は『禅文化』第263号(発行:公益財団法人 禅文化研究所/2022年1月25日発行)に寄稿した文を加筆・修正したものです。
 

page up