漢詩徒然草(14)「梅雨」

平兮 明鏡
2022/6/8

梅霖連日掩茅軒 梅霖 連日 茅軒を掩い
檐滴蕭蕭燈影昏 檐滴 蕭々 灯影昏し
修己不關晴雨事 修己 関せず 晴雨の事
須開案上學門門 須らく案上に学門の門を開くべし

梅霖 … 梅雨の霖《ながあめ》
茅軒 … かやぶきの軒。また、その家
檐滴 … 軒端《のきば》の雨だれ
蕭蕭 … ものさびしく雨が降るさま
修己 … 自己を修養すること
須 … すべからく(当然~すべきだ)
案上 … 机の上


6月に入り、梅雨どきの鬱陶しい季節になってきました。今回は題のとおり、「梅雨」を詠んだ詩になります。「梅雨」は《つゆ、ばいう》と読みますが、漢詩では一般的に熟語は音読みで読みますので、《ばいう》としています。

梅雨の時期といえば、どんよりとした空模様にジメジメとした空気、連日の止まない雨にいつまでも家に閉じ込められ、どうしても陰鬱な気分になってしまいます。この季節が好きという人もあまりいないのではないでしょうか。

梅霖連日掩茅軒 梅霖 連日 茅軒を掩い
檐滴蕭蕭燈影昏 檐滴 蕭々 灯影昏し


以前に新聞で「冬と夏、どちらが好きですか?」というアンケート調査がありました。過ごしやすく行楽にうってつけの春と秋ではなく、あえて冬と夏を対決させたところに、この質問者の意地悪なユーモアを感じます。

結果はといいますと、冬は38%、夏は62%で、やや夏が勝《まさ》っていました。しかし、このアンケート調査のさらに興味深かったところは、「なぜ、そう思ったのか?」という理由も聞いていたところです。

その理由とは……冬の方が好きと答えた人の一位は「暑くないから」で、夏の方が好きと答えた人の一位は「寒くないから」でした。つまり、冬の好きなところ、夏の好きなところで選んだのではなく、自分の苦手でない方を選んだだけの結果だったのです。

夏と答えた回答者のコメントを見てみても「冬よりも夏がいいと思っているだけで、夏が好きなわけではない」「正直、夏も冬も苦手」「本当は春が一番好き」といった意見が並んでいて、消去法で選ばれたといった感じです。これでは選ばれた夏の方が可哀想に思えてきます。

冬の寒さや夏の暑さがつらいのは当然のことですが、「冬のここが好き!」「夏のここが好き!」と考える方が、もっと活き活きと楽しい季節を過ごせるのではないでしょうか。子供のころは誰もが、雪の中でも、炎天下のもとでも、元気に駆け回っていたことと思います。

梅雨の季節も同様です。梅雨も決してよい気候とは言えないかもしれませんが、その雨音の中、薄暗い明かりのもとで、何をどう思うかは自分次第です。今いるこの場所で、自ら喜びや楽しみを見つけ出すことができたのなら、梅雨も自ずと素晴らしい季節になっていくはずです。


人は鶏犬の放たるること有らば、則ち之《これ》を求むるを知るも、
心を放つこと有るも、求むるを知らず。
学問の道は他《た》無し。其の放心を求むるのみ。
 

『孟子』告子章句

人は自分の鶏や犬が逃げ出すことがあれば、すぐにその鶏や犬を探そうとするのに、自分の心を失ってしまったときは、それを探し求めようとはしない。学問の道というのは他でもない、その失った心を探し求めるだけのことなのだ。

学問とは、現代ではいわゆる体系化された学問分野の総称を指しますが、本来は、もっと純粋に自己の修養のために学びを得ることです。さらに孟子は、それは本来持っていたはずの心を探し求めることだと言っています。(儒家の孟子がここでいう失った心とは「仁(思いやりの心)」や「義(正しい道)」のことです)

修己不關晴雨事 修己 関せず 晴雨の事

それは、自身の心を見つめ直す学びであり、喜びの発見です。「晴雨の事」とは、何も実際の天気のことだけを言っているのではありません。それは「人生の晴雨」でも同じことです。晴れの日も雨の日も、いつ何どきであっても、心の探究を続けられるかで、人生の歩みも変わってくるでしょう。

須開案上學門門 須らく案上に学門の門を開くべし

「学びの門」は、自己の心を学ぶからこそ、単に知識や技能の入り口というだけのものではありません。「学門」は普通は「学問」と書きますが、昔は「学門」と書かれることもあったそうです。自己の歩むべき道へと通じる門という意味では、むしろこちらの方がふさわしいと感じます。

霖《ながあめ》で家の門戸が閉ざされていても、あるいは人生の雨露霜雪であっても、「学びの門」は常に開くことができます。そうして、自ら喜びや楽しみを見つけ出すことができたのなら、雨空は雨空のままで光輝く活き活きとした季節になっていくはずです。


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梅霖連日掩茅軒 梅霖 連日 茅軒を掩い
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檐滴蕭蕭燈影昏 檐滴 蕭々 灯影昏し
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修己不關晴雨事 修己 関せず 晴雨の事
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須開案上學門門 須らく案上に学門の門を開くべし

平起式、「軒」「昏」「門」上平声・十三元の押韻です。
 

三餘(三余)

「雨の日はやることがない……」そんなことを思っていませんか?そんなあなたに、今回の話に因んで「三余」という言葉を紹介したいと思います。「読書三余」「董遇三余」とも言います。

中国三国時代、魏の董遇《とうぐう》が、弟子に「読書百遍」するように薦めます。「読書百遍」とは、同じ本でも何度も繰り返し読んで、その理解を深めていくという意味です。しかしこのとき、その弟子は「とてもそんな時間はありません」と答えます。そこで、董遇は「そんなことはない。三余を当てなさい」と教え諭しました。(『三国志』魏志・王肅伝注)

「三余」とは、読書をするに適した三つの余りの時間のことで、

一年の余りで、農期が終わった冬
一日の余りで、仕事のない夜
時の余りで、仕事ができない雨天時


の三つです。

何もできないからといって、何もしないのであれば、学問はもちろんのこと、喜びも楽しみも得られることはありません。このお話は、都合が悪いとき、上手くいっていないときにこそ、学びを得るチャンスがあることを教えてくれています。まさに梅雨の時期は、学問を深める絶好の機会なのです。

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