「筑豊炭田」歴史探訪記

平兮 明鏡
2021/4/8

長者山 上りて奢る 道へ出ば
  もはや下れる 坂と知るべし


数年前、春もたけなわの頃、お寺で参加者を募り毎年恒例の研修旅行を行った。福岡県、飯塚《いいづか》・田川の炭鉱の歴史探訪として企画されたものであったが、筑豊炭田は青史の帙を繙くとしては、まだまだ記憶に新しいところだろう。

筑豊炭田は、鉱山の存在する地域が旧国名でいう筑前国と豊前国に跨がっているため「筑豊」という名が付いている。ちなみに、筑豊炭鉱という炭鉱はない。炭鉱とは石炭を掘り出す鉱山のことをいうので、田川、飯塚を含む筑豊一帯の鉱山群は「炭田」と呼ばれた。

筑豊炭田の歴史は古く、江戸時代中期頃からすでに燃料として石炭を用いるようになっていたため、当時の小倉藩と福岡藩は石炭採掘・輸送・販売を藩の管理下に置き、炭鉱の開発を進めたというから驚きである。明治時代になると産業革命が興り、国や民間により炭鉱開発が急速に進められた。明治34年には八幡製鐵所の操業開始によりさらに生産量が増し、戦前の日本では最大規模の炭田であった。

旅行当日は、田川市の石炭歴史博物館、同市の料亭あおぎり、飯塚市の嘉穂《かほ》劇場を訪れたが、その全てが筑豊炭田の歴史の中にあるといってよい。まさに地方そのものが炭鉱により成り立っていたのである。

田川市石炭歴史博物館は、筑豊地方最大の炭鉱であった三井田川鉱業所伊田坑《いたこう》の跡地に建てられた「石炭」をその名に冠した公立では全国唯一の博物館である。バスで博物館のある公園内に登ってゆくと、そびえ立つ竪坑櫓《たてこうやぐら》が我々を出迎えてくれた。さらに博物館裏手には、そのシンボルである二本煙突の雄壮な姿が今なお残っている。

 

竪坑櫓《たてこうやぐら》
二本煙突


博物館から北側を望むとちょうど正面に香春岳《かわらだけ》を視界に捉えることが出来る。香春岳の一ノ岳は『半分から上が無い』。香春岳は全体が石灰岩により成っており、つまりは採掘により山をここまで削り取ったということである。当時の採掘にかける膨大なエネルギーとともに、人間の業をも感じずにはいられない遠望を目の当たりにした。

博物館は歴史資料のほか、「山本作兵衛コレクション」を所蔵・展示している。山本作兵衛は、明治25年に福岡県嘉麻郡笠松村(現飯塚市)に生まれ、鉱夫の父とともに筑豊の炭鉱を転々とした。7、8歳のころから兄とともに坑内の手伝いで家計を助け、15歳で炭鉱夫として入坑、以後、昭和30年に退職するまで、約50年間に移り住んだ炭鉱は十八を数えている。

その生粋の炭鉱夫である山本作兵衛が、自らの体験をもとに明治・大正から昭和初期にかけての在りし日の炭鉱の姿を臨場感溢れるタッチで克明に描いているのが、この山本作兵衛コレクションである。他に類を見ない一時代の炭鉱社会の記録集として高い評価を受け、平成23年には世界記憶遺産に登録された。

館内では山本作兵衛コレクションをはじめ多くの展示品について、同時代を生きた元炭鉱夫のガイドさんが詳細に、また当時を思い起こす語り口で説明してくれた。そのときのお話を一つ紹介する。

坑内ではたくさんの禁止事項があるが、その中でも「手を打つ」「唄を歌う」「大声で笑う」「口笛を吹く」などは絶対の禁止事項だった。常に危険がつきまとう坑内では少しの油断も許されないからである。手を打つのを禁じるのは坑木の折れる音に似ているからであり、他は山鳴り、つまり落盤の前兆である小さな音を聞き漏らさないようにするためである。一たび炭坑に潜ると本当に死と隣り合わせだった。

炭鉱には崩落や爆発、火災など事故がつきものであった。大正3年、田川郡の三菱方城《ほうじょう》炭鉱でガス爆発事故が起き、犠牲者の数は687人にのぼった。しかし、子供や非正規雇用の炭鉱夫など名簿から漏れているものも多く、実際の犠牲者は千人を超えていたのではないかとも言われている。「方城大非常」と呼ばれる日本最大の炭鉱事故である。当時は炭鉱事故を「非常」と称した。「大非常」とは大事故のことである。

痛ましい事故も決して少なくなかったが、炭鉱は同時に地域に繁栄も齎してきた。博物館を降りてすぐの場所にある、昼食を取るため立ち寄った料亭あおぎりは、昭和18年より田川市の初代市長を務めた林田春次郎の旧邸である。大正3年に建てられた伝統的な民家と、昭和9年に建てられた迎賓館の二棟からなり、現在でも筑豊が栄えていた頃の面影を残す数少ない建築遺産となっている。

迎賓館は銅ぶきの屋根を持つことから当時、銅《あかがね》御殿と呼ばれており、食事後にはその二階の大広間に案内して頂いた。天井は折上げ格天井、室内は書院造りとなっていて、伝統の中にも昭和の近代的な意匠が調和している。広縁からはその敷地が高台にあるということもあり、香春岳を含めて田川市内が一望出来る。その日はよく晴れた空のもと、のどかな市内の光景が広がっていたが、80年前は大変賑わっていた繁華街が見えたのであろうと想像を巡らせた。香春岳もまだ山の形をしていたはずである。

 


筑豊炭田は明治に入ってから富国強兵策により炭鉱開発が大規模に進められ、そのような状況が戦後も昭和30年代まで続いた。しかし、国のエネルギー転換政策により、筑豊炭田も時代の流れには逆らえず、昭和40年代後半には次々と閉山していき、昭和51年に貝島炭鉱(鞍手郡宮田町)が閉山したのを最後に、すべての炭鉱が閉山した。現在そのほとんどは撤去、またはコンクリートで塞がれて、もとの姿を窺い知ることは出来ないが、一部は田川市石炭歴史博物館のように歴史遺産として保存されている。

炭鉱の閉山はそれまで栄えていた筑豊の炭鉱街の衰退を招き、それに伴う過疎化により人口が半減した地域もあった。現在は炭鉱跡の工場団地に企業誘致を進めているが、急速な過疎化に歯止めはかかっていないという。

林田春次郎の言葉に次のようなものがある。

「百年後を常に研究題目とせよ。あの旭日昇天の如き三井鉱山といえども、
 必ず寿命のあることを忘れてはならぬ」


これは三井伊田坑の竪坑櫓が完成し本格的に出炭が始まり、まさに隆盛に向かわんとしていた当時の言葉である。

今となっては当然のことであるが、栄華を極めた鉱山街もいつかは衰退する。三井田川鉱業所は昭和39年に閉山した。現在はすでに、それからさらに57年という月日が経過している。当時、栄華の中にいた人々は、はたして今のこの光景を想像出来ただろうか。平成14年には北海道の太平洋炭鉱が閉山して坑内掘りの炭鉱は日本から完全に消滅した。炭坑の歴史は150年あるということだが、その歴史ももうすでに終わりを告げたということである。

当日は筑豊炭田百年の歴史をわずか一日で巡ったわけであるが、その中に一時代の栄枯盛衰を見た思いである。我々は未来のことなどは知る由もないが、人々の生活は炭鉱がなくなったあとも続いてゆく。冒頭で引用した道歌のとおり無常の理《ことわり》は明らかであるが、それでもなお炭鉱の歴史は我々に、今をどう生きていくのかと問いかけているように思えてならない。夕刻、かつての繁栄を象徴する香春岳の異容を背に、在りし日々に思いを馳せながら帰路に着いた。

(臨済会発行『法光』令和三年春彼岸号に掲載されたものを加筆修正したものです)
 

(「香春岳」写真提供 香春町役場)

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