映画監督 小津安二郎の“無”
〔寄稿エッセイ〕
映画監督の巨匠 小津安二郎(1903~1963)は誕生と亡くなった月日(12月12日)が同じで、昨年末が生誕百二十年、没後六十年であった。
小津監督が嘗て住んだ家は、鎌倉円覚寺に近い浄智寺境内の一角で谷戸の隧道をぬけた処にあり、母あさゑと二人だけで暮らしていた。
母は小津が亡くなる前年の昭和37年2月に88歳で亡くなった。当時の浄智寺住職は円覚寺派管長でもあった朝比奈宗源老師で、通夜は自宅で葬儀は浄智寺仏殿で行なわれた。その後、母の遺骨は高野山と小津家の菩提寺である深川の妙心寺派 陽岳寺の父 寅之助が眠る墓地に納められた。しかし、小津は生前自身の墓は円覚寺にと決めていた。
小津が円覚寺に決めたのは、北鎌倉という土地が終の棲家でもあり、更にはこの地が小津映画製作の大切なサンクチュアリー(聖域)であったからではないか。朝比奈老師も小津への引導法語で、
「老来殊愛山中好/死在巌根骨也清」
(老来 殊《こと》に愛す 山中の好きを/死は巌根に在りて 骨也《また》清し)
と唱えている。この一句からも小津がこの地を愛し、そこに眠りたいという思いが伝わる。
その小津の墓は、映画のスクリーンを模った黒御影石に「無」の一字が彫られている。字は朝比奈宗源老師の筆による。この「無」の字は、小津が生前、朝比奈老師に頼んでいたそうだが、墓石建立に際し新たに老師が書いたものであった。小津にとってこの墓の「無」の字はどういう意味があったか。
小津は戦時中兵隊として招集され、南京に暫く滞在した。そこの兵舎の裏山に鶏鳴寺という古刹があった。この寺は千数百年の歴史があり、武帝が奉仏活動の拠点としたことや空海も来たことでも知られているが、この寺を小津は訪ねている。当時は相当荒れ寺であったが、二空という住職がいて小津は「無」の一字を書いてもらっている。
この「無」の字に関する記事が当時の朝日新聞(昭和13年8月27日付夕刊)に次のように書かれている。記事の見出しには、
「戦線と銃後で/ゆかしい禅問答/小津監督からの〈無〉の字/首を振る溝口監督」
とあり、南京の戦線から鶏鳴寺の住職二空に書いてもらった「無」の字を先輩監督の溝口健二に送った。それに対して溝口監督は、
「然るべき人に〈有〉と書いてもらって禅問答の答を送ることになった」
とコメントし、二空の書いた「無」の写真も掲載されている。
私は当然ながら、封切当時の小津映画はまったく知らない世代だが、昨年、生誕百二十年を記念して『東京物語』や遺作となった『秋刀魚の味』等をBSなどで観ることができた。話に聞いていた映像は、小津独特のローアングルで落ち着いた画面効果に却って新鮮さを覚え、物語は極めて静謐で日常の人間模様が展開されていく。
映画を観ながら小津が墓碑に拘った「無」の字のことを考えてみた。物理的には「無」から「有」を生むかも知れないが、小津作品から受ける「無」はまるで僧堂生活のように日々規則正しく生活し、自己を見つめ探求する日常に通じるように思われた。小津には、
「何でもないものも二度と現れない故にこの世のものは限りなく貴い」
という有名な言葉を残している。
小津の影響を受けた映画監督は国内外に多くいる。近作では、ドイツのヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』が話題作であった。これは、役所広司演じる平山という人物が東京渋谷の公衆トイレ清掃を生業とする日常の物語である。
〈平山〉というのは『東京物語』以来、小津映画ファンなら既に馴染みの姓であることからも、この監督の小津への思い入れの程が知れよう。
そして実に単調な平山の日常を画くことも、小津の「無」の美学に通じるものなのではないか。円覚寺の小津安二郎の墓石に書かれた「無」の字は、先の小津の言葉とともに我々にそう語っている気がする。
寄稿者プロフィール
三重県鈴鹿市在住
臨済宗連合各派布教師会 布教師
同人雑誌『火涼』主宰(現在88号)