漢詩徒然草(35)「春寒」

平兮 明鏡
2024/3/1

風裏梅花落 風裏に梅花落つ
一枝還一枝 一枝 還た一枝
今春何處去 今春 何れの処にか去るや
櫻蕾兩三知 桜蕾 両三知る

春寒 … 春先になお残る寒さ
櫻蕾 … 桜の蕾《つぼみ》
兩三 … 二つ、三つ


3月になりました。新春、つまり1月1日を一年の始まりと見るなら、今年はまだ始まったばかりと言えるかもしれませんが、年度という区切りで見れば、3月はその終わりでもあり、学校や仕事の場では、出会いと別れを経験する時期でもあります。

一方、自然の風景に目を見やると、いよいよ春本番へと差し掛かり、桜が開花しようとしています。草木は芽吹き花々は咲き撓《おお》る陽春の季節への期待が、自ずと高まってきます。

しかし、一つの始まりがあるということは、一つの終わりもあるということです。学校で卒業生を見送ると同時に新入生を迎えるように、そこには去りゆくものと受け継ぐものの存在があるのが常なのではないでしょうか。


風裏梅花落 風裏に梅花落つ
一枝還一枝 一枝 還た一枝

立春も過ぎてしばらく経ちましたが、まだ若干寒さが残る、そんな春先。春風とは名ばかりの凛とした風に、せっかく咲いていた梅の花びらが一つ、また一つと落ちてゆきます。

前回、お話しましたように、梅は一年で一番初めに咲く花だとされ、「百花の魁《さきがけ》」と呼ばれています。しかし、魁であるが故に、人は梅に一種の孤独感というものを感じるかもしれません。独り咲き誇り、他の花がまだ開く前に散ってゆくさまには、美しさとともに清廉な厳しさがあります。

今春何處去 今春 何れの処にか去るや

梅の花が咲いて、ようやく春がやって来たかと思えた、そんな矢先、突然の寒風に散ってゆく梅の花びら……。春は一体どこに去っていってしまったのか?と、そのような錯覚にとらわれます。

櫻蕾兩三知 桜蕾 両三知る

しかし、その庭には、また別の梢がありました。桜の木の枝です。そこには、今にも綻《ほころ》ばんとしてる桜の蕾が、二つ三つあるではないですか。春の所在は、それを受け継ぐべき桜の蕾がすでに知っています。その僅かな花を見て、他の蕾たちもいずれ花開くことでしょう。春は確かにそのもとにあったのです。


北海道の南端、襟裳岬《えりもみさき》で有名な、えりも町のあるお医者さんのお話です。

この方は、町の診療所の女医さんで、以前は大阪市内の病院に勤めていましたが、遥か遠く、えりも町まで単身赴任して来ました。襟裳岬と言えば、森進一さんの曲「襟裳岬」を連想する人がいるかもしれません。Wikipedia「襟裳岬 (森進一の曲)」には、この歌詞に出てくる「襟裳の春は何もない春です」という箇所について面白いエピソードが記載されています。大阪の大都会から、そんな、えりも町にはるばる赴任して来たのには理由があります。

この方、もとは専業主婦でしたが、たまたまテレビで辺地で働いている老医師の特集番組を視聴します。その辺地医療の活動を見て、心に強く感じたことは「ここには、この老医師の往診を待っている患者さんたちが確かにいるんだ」ということです。そう思ったときには「自分も医者になって医療が受けられない人たちを治療したい!」と決意していました。

そして、猛勉強の末、大学の医学部に入学し、なんと42歳で念願の医師免許を取得します。インターンののち、しばらく大阪の病院に勤務しますが、ついに念願叶って、えりも町の診療所へ赴任することが決まりました。

治療を求める人たちに手を差し伸べるという夢は、不断の努力と長い時間をかけて、ついに実現しました。きっかけは、たまたまテレビで辺地医療の老医師の活動を知ったことでした。しかし、それを知ることが、大きな決意へと繋がったのです。


去りゆくものから受け継ぐということ。

今春何處去 今春 何れの処にか去るや
櫻蕾兩三知 桜蕾 両三知る

梅から直接、春を受け継いだ桜の花が僅かばかりであったように、去りゆくものが残したものに気付くことができるものは、そう多くはいないでしょう。それは、特別な機会や、強くそれを感じ取ろうとする意思がないと、容易に知ることはできません。この二、三の蕾も、寒風の中、咲くことを厭わなかった花たちです。

受け継ぐことができるのは、去りゆくものの思いを知るものだけです。しかし、それを知ることが、どんなに大きなことでもやり遂げる決意を与えてくれます。この「知る」とは、ただ知るということではなく、人々を助けるような、そんな「大きな意志」を知るということです。

風裏梅花落 風裏に梅花落つ
一枝還一枝 一枝 還た一枝

途切れることなく繋いでいく春のバトンリレー。梅から春を受け継いだ桜もいずれは自分が去る番が回ってきます。冒頭でお話したように、春は出会いと別れの季節でもあります。梅が去り、桜が去ったとき、今度は私たちは何を思うのでしょうか?

去りゆくものができることと、受け継ぐものができること。

今回は春の始まりの情景に仮託して、去りゆくものと受け継ぐものの思いを詠んでみました。
 
 


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風裏梅花落 風裏に梅花落つ
●○○●◎
一枝還一枝 一枝 還た一枝
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今春何處去 今春 何れの処にか去るや
○●●○◎
櫻蕾兩三知 桜蕾 両三知る

五言絶句、仄起式「枝」「知」上平声・四支の押韻です。

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