ミスチル“NOT FOUND”と般若心経
齢40も半ばになると、音楽の趣向もほぼ固定され、10代20代に聴いていたものをそのまま聴いている状態になってしまうのは私だけではないはずだ。
ということで、ミスチルを私はよく聴くのである。
“NOT FOUND”という曲がある。印象的なアコースティックギターソロから始まり、次第に疾走感を帯びていくこの楽曲の聴後感は何度聞いても清々しい。その訳はあくまでも私見なのだが、曲調もさることながら、歌詞にもあると見ている。
そもそも「NOT FOUND」とは、ネット用語で、目指したサイトに到達できなかったときに、画面に404のエラーコードと共に表示されるメッセージである。直訳すると「見つかりません」ということ。曲中でも、
昨日探し当てた場所に
今日もジャンプしてみるけれど
なぜかNOT FOUND 今日もNOT FOUND
と、示唆する詞が出てくる。でもこの曲はネットの曲ではなく、ラブソングなのである。
恋愛を一種のユートピアだととらえて、何でも分かりあえると踏んでいた「僕」が、「君」という恋人と付き合っていくうちに、「君」の複雑で不可解な態度に苦痛を伴いながらも、向き合おうと格闘する様が描かれている。
だから、このNOT FOUNDは、恋人に自分が期待する態度を求めたが、それが「見つからない」と言っているのである。そしてそれは相手の恋人も同じはずである。
恋人に限らず、私たちは他人に期待する。あてにするといってもいい。勝手にあてにしておきながら、そうならないと腹を立てる。
だけど、生きることはNOT FOUND=見つからない、またはあてにならないの連続だ。昨日見つけたものが今日になっても同じようにあるとは限らない。
そのあてにならないことをもっともドラスティックに示しているのが、かの『般若心経』である。
あの「無」と「不」の容赦ない否定につぐ否定。にもかかわらず、『般若心経』も否定の悲愴感よりも、不思議と読んだ後でも聴いた後でも清涼感に満たされる。(当サイトにも掲載されているので、見てほしい。)
多分、この「あてにする」という自縄自縛から、私たちはNOT FOUNDに接している刹那だけでも、心は解放されて自由になるのではないだろうか。それが『般若心経』と同じとはいわないが、“NOT FOUND”の投げかけるメッセージにもあり、不思議な清々しさにつながっていると感じている。
クライマックス、歌詞は叫ぶ。
君に触れていたい 痛みすら伴い
歯痒くとも 切なくとも 微笑みを 微笑みを
もう一度 微笑みを
苦痛を伴っても触れていたい、あてにすることなく、ただ微笑む作詞者・桜井和寿の究極の愛のカタチがここに示される。
それは愛というより慈悲に近いのかもしれない。
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