座蒲団私考《ざぶとんしこう》

谷川 光昭
2023/12/15

臨済宗では、坐禅の時には単布団《たんぶとん》という大きな座蒲団を使う。十年以上は使っているマイ単布団には愛着すらある。

京都から松本へ来た時に師匠がわたしの単布団をさわって、「なんかべたべたするな」と言われ、咄嗟に「血と汗と涙がしみ込んでいます」と答えたことを思い出す。

最初は布団の中の綿がやわらかく、ふかふかでひっくり返りそうになるくらい坐りにくいのだが、使っている内に綿がしまってきて坐りやすくなってくる。単布団があれば長い時間坐ることができるので、大変お世話になっている。


法事やお葬式などへ行けば、「和尚さんどうぞ」と言って、座蒲団に坐るように勧められる。一度は「結構です」と断るのだが、床にそのまま坐り続けると足がしびれてしまうので、ありがたくいつも使わせていただいている。

しかし、時には和尚さん用にと、一番ふかふかで大きな座蒲団を勧められるときにはどうしても恐縮してしまう。「こんな立派な座蒲団に坐ってお経を誦むお前は何者だ」と自問自答さえする。そんなことを考えながらふと一つの詩を思い返す。

座蒲団 (山之口獏)

土の上には床《ゆか》がある

床の上には畳がある

畳の上にあるのが座蒲団《ざぶとん》でその上にあるのが楽という

楽の上にはなんにもないのであろうか

どうぞおしきなさいとすすめられて

楽に坐《すわ》ったさびしさよ

土の世界をはるかにみおろしているように 住み馴《な》れぬ世界がさびしいよ

高田渡さんという歌手が、この詩に曲をつけて歌っている。それを聞いていたこともあり、何となくこの詩が頭に浮かんできた。よくよく考えると今のわたしの想いにぴったりだなと思う。

山之口獏さんは沖縄生まれの詩人で、関東大震災や戦争を経験しながらも社会に束縛されることなく自由に人間味あふれる詩を遺している。

放浪生活も長く、座蒲団に坐ることもほとんどないような生活をしていた。そんな獏さんの素直な気持ちがこの「座蒲団」という詩には表れている。詩人という肩書や家主としての立場ができ、放浪生活を懐かしむ心情が吐露されている。


「楽」について考えてみる。

楽をすると聞けば、力を尽くさないとか、手を抜いているようなイメージがあるが、決してそのような楽だけではないはずだ。「楽」にはもっと、わたしたちの救いとなるような、どこでも自由に生きていけるような「楽」もある。

家を失い、放浪生活。傍から見れば、「大変だな」と思うような状況にありながらも、獏さんの生き方からは自身が楽しんでいる様子や明るさがうかがえる。

本当の「楽」とはそんな苦しみの中にあっても、その苦しみに支配されないことなのだろう。そして獏さんのように、苦労やつらいといった思いを引きずらないことが大切なのではないかと考えさせられる。


わたしがふかふかの大きな座蒲団に坐らせてもらって感じる違和感の正体がなにかだんだんと分かってきた。

楽の上に安住しないこと。安住すると楽な方、楽な方へと心が向かっていってしまう。それを無意識に嫌っていたのだろう。たとえ土の上でも、床の上でも、畳の上でも、自由に坐ることができたのなら、どんなところにいても本当の意味で「楽」に生きることができるのだと思う

そしてそれは結局、座蒲団の上も同じことだと思う。獏さんもわたしのように座蒲団の上が苦手だったようだが、突き詰めて考えると、ふかふかな座蒲団の上でも、人は自由に坐ることができるはずだ。

座蒲団に是非はない。是非があるのは自分の心の方だ。座蒲団の上にあっても、決して楽に流されずに「楽」に生きる。そんな生き方ができればよい。

実際、座蒲団があれば長い時間坐ることができる。

ふかふかな座蒲団の上でも心を引き締めて、一心に「楽」に生きたいと思う。

きょうも座蒲団の上に坐らせてもらい、お経をあげる。

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