鈍と純と頓

山田 真隆
2021/6/1

「空気を読む」、嫌いな言葉だ。

言葉という人間の作った素晴らしい発明を真っ向から否定しているからだ。言葉で言えば伝わることを、言わなくても気で察しろというのは、言葉で表現することを放棄して冒涜しているとしか思えない。言葉の冒涜は、ひいては人間そのものをも冒涜していくのかもしれない。

そんな言葉が闊歩する今だから、空気を敏感に読める人が重宝される。重宝される人に誰もがなろうとして、疲れてしまっているのが今の社会のように見える。なれなかった人は落伍し、なれた人でも、いつその座から陥落するかわからない。ある種の、現代人自らが作り上げた不安。「空気を読む」ことはけっして人を豊かにしない。

空気を敏感に読まない、いや空気というものすら意に介しないというのが、禅である。
禅で尊ばれるのは、敏より鈍《どん》。この鈍にまつわる逸話には事欠かない。

井戸に雪を投げ込んで埋めようとした徳雲《とくうん》という人。
鼻水を垂らしたままで生活し、人に「鼻をすすったらどうだ」と言われ「俺は修行で忙しく、すする暇がない」と返した懶瓚《らんさん》という人。
仏像に馬乗りになったり、寒いからといって仏像を焚火にした丹霞天然《たんかてんねん》という人。
師匠の顔を思いっきりはったおし、礼拝のし過ぎで額にコブがあった黄檗希運《おうばくきうん》という人。

枚挙に暇がない。禅の達人たちは少なからずこういったエピソードを持っている。

もちろんこれらの行為はやけくそでやっているのではなく、禅の思想を行いにするとこうなってしまうという言い分があるのだが、それにしても破天荒、そしてあまりにも愚鈍である。

でも空気なんか読まずに、鈍であればこそ、純《じゅん》になれる。純は「もっぱら」の意。よくみると漢字の片方が同じである、だから、鈍と純では違うようで同じ要素を持っているのである。

さらに、鈍や純と半分が同じ字に、頓《とん》がある。頓とは「たちまちに」の意で、はやいという表現でも足りない電光石火の速さ、時間差がなくその場で、ということである。

段階を経ずに真理に到達することを、禅では、「頓悟」という。だから禅ではこの「頓」ということも尊ばれる。だけど、頓に必要なのは、敏感に空気を読むなどではなく、鈍と純なのである。

これだけ今の社会に空気を読むことが求められていると、この鈍を起点とする禅の教えがどこまで浸透するかは分からないが、確実に今社会に必要な思想だと感じている。

いつもというわけにはいかないだろうが、時には全身の感度を落として、鈍感になってみる。人に愚かさを揶揄されても気にしない。少なくとも禅の達人たちはそのように生きて生涯を全うしたのである。私たちに出来ないことはない。

空気を読むこと、重宝される人になるのに疲れたら、鈍である。
鈍で純な行動が、私たちの心を頓に楽にする。

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