漢詩徒然草(30)「天月與水月」

平兮 明鏡
2023/9/28

秋夜舟遊雲水閒 秋夜の舟遊 雲水の間
月流江上浪淸閑 月は江上に流れて 浪清閑
深潭魚不識旻廣 深潭の魚は旻の広きを識らず
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舟遊 … 小舟に乗って遊ぶこと
雲水 … ここでは雲と江《かわ》のこと
淸閑 … 清らかで静かなこと
深潭 … 深いふち
旻 … あきぞら


この詩は、見てのとおり結句がありません。これは、転句までの流れを読んだ上で、自分で結句を考えて欲しかったからです。今回の詩の作者は、読者である“あなた”です。この物語を創作するとするなら、あなたはどのような結末にしますか?本文を最後まで読み進める前に少し考えて、この物語のラストシーンを決めてみてください。

詩題は、「天月與水月(天月と水月と)」とあります。つまり、今回の詩のテーマは「天月:夜空に浮かぶ月」と「水月:水面に浮かぶ月」の対比にあります。これは、本物の月と偽物の月、と言い換えることもできるかもしれません。この両者にどのような決着をつけるのか?いっしょに考えてみましょう。


秋夜舟遊雲水閒 秋夜の舟遊 雲水の間

秋にはさまざまな好風景がありますが、その冠たるものは何といっても、十五夜に代表されるような満月ではないでしょうか。十五夜とは、陰暦8月15日の満月をいいます。令和5年の中秋は、9月29日(新暦)に当たり、もっとも空が澄みわたる時期の満月で、一年のうちでも最高の月といえるでしょう。

秋の夜長という言葉もありますが、古来、人々は月を眺めては秋の夜を楽しんでいました。この物語も、そのような風流に倣《なら》って、天と水の間に小舟でも浮かべてみることにしましょう。

月流江上浪淸閑 月は江上に流れて 浪清閑

月は天以外にももう一つ、水面にもゆらゆらと流れてゆきます。その波はキラキラとどこまでも清らかで静やかです。幻想的ともいえる情景ですが、しかし、その二つの月こそが今回の詩のテーマになります。ここで一波乱を起こすことにします。

深潭魚不識旻廣 深潭の魚は旻の広きを識らず

その深い川底に棲む魚は、水面の月を見ることはあっても、この広い秋空に浮かぶ本物の月を知ることはないでしょう。まさに井の中の蛙です。生涯、本物の月を見ることのない深潭の魚は、結句でどのような結末を迎えるのでしょうか?ここでしばらく考えてみてください。


それでは、私の考えた結句です。

萬里天涯眞箇環 万里の天涯《てんがい》 真箇《しんこ》の環《かん》

天涯 … 空の果て
真箇 … 本当の
環 … たまき。輪の形をした宝玉

「真箇の環」とは、天空に浮かぶ本物の月のことを「環《たまき》」に喩《たと》えて表しています。その真実の月が、遥か空の果てまで澄みわたる秋の夜を照らし出します。「まさに憐れむべし深潭の魚、この素晴らしい月を見ることができないなんて!」というわけです。

オチとしては纏《まと》まっていて、一度はこのような形で完成したのですが、しかし、何度か読んでいるうちに、「はたして、これでよいのだろうか?」という思いがふつふつと湧いてきました。

それは、偽物は本物には敵わない、というこの物語の結末に私自身が納得できなかったからです。偽物には偽物の哲学があります。その思いは、決して本物に劣ったものではないはずです。ここでこの深潭の魚が臆する必要などまったくありません。

そう思い直して書き直したのが、次の結句です。

此是別愉眞箇環 此《これ》は是《これ》 別に愉《たの》しむ 真箇の環

「この水月もこれはこれとして、天の月とは別に真実、賞すべき本物の月ではないか。天の月、何するものぞ」と。

水月も心から鑑賞することができれば本物の……いや、本物以上に素晴らしい月となり得るはずです。偽物が本物に敵わない道理などどこにもありません。井の中の蛙は大海を知らなかったかもしれませんが、井の中には井の中の小宇宙があります。

もとの結句では、魚の住む世界から夜空の月に展開しましたが、今度の結句では、さらに水面の月へと展開しています。転句を分岐点にして、天上と水面下にそれぞれ物語は分岐しました。中秋の名月を題材に、思いがけず真贋の本質とは何かを考える詩になったのです。

しかし、これはあくまで私の詩情です。あなたなら、天の月を見ることができない川底の魚をどう思いますか?ここは是非、やはり自身の詩情を吐露してみてください。詩とは水月のように、自身の心を映す鏡なのですから。


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秋夜舟遊雲水閒 秋夜の舟遊 雲水の間
●○○●●○◎
月流江上浪淸閑 月は江上に流れて 浪清閑
○○○●●○●
深潭魚不識旻廣 深潭の魚 旻の広きを識らず
●●●○○●◎
此是別愉眞箇環 此は是 別に愉しむ 真箇の環

仄起式、「閒」「閑」「環」上平声・十五刪の押韻です。
 

物語の完成は一度だけではない

詩に限らず、創作は作り始める前に構想を練る必要があります。文章でいうとアウトラインという言葉もありますが、アウトラインそのものは、途中で変更してもしまっても構いません。否、よりよい作品になると思ったら、いつでも変更すべきものなのです。

漢詩にも、完成したあとに行う「推敲」という行程があります。この言葉は、唐の時代、賈島《かとう》という詩人が、

僧推月下門 僧は推《お》す 月下の門

という句で、「推す」にするか「敲《たた》く」にするかと、考え込みなら歩いていて、都の長官・韓愈《かんゆ》の行列に突っ込んでしまった故事に拠ります。また、賈島は「送無可上人(無可上人を送る)」という詩の、

獨行潭底影 独り行く 潭底《たんてい》の影
數息樹邊身 数《しばし》ば息《いこ》う 樹辺の身

(君と別れたあとの道行きでは、深い水底に影を落とし、
 しばしば木陰の辺《ほと》りで休憩をとったりもした)

という二句を完成させるのに三年をかけたともいいます。今回の詩のように、自分が納得できなからったら、作品の真の完成になることはないでしょう。真の完成とは、完成の先にあるものなのです。

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