漢詩徒然草(20)「客路」
古道光陰常過客 古えに道う 光陰常しなえの過客なりと
浮生一夢惜分携 浮生の一夢 分携を惜しむ
何如進步餘年路 何如が歩を進めん 余年の路
心只不迷途不迷 心只迷わざれば 途に迷わず
光陰 … 時間、月日
過客 … 旅人
浮生 … はかない人生
分携 … 離別
餘年 … 余生、これからの人生
今年ももう一年が過ぎ去ろうとしています。去年も12月には、年末にちなんで人生の時間の流れについての詩を作りましたが、今年も人生について考えてみましょう。
詩題は「客路《かくろ》」とありますが、これは旅路《たびじ》という意味です。しかし、旅路は旅路でも、ここでは述べたとおり「人生の旅路」のことです。
古道光陰常過客 古えに道う 光陰常しなえの過客なりと
今回の作は李白の「春夜宴桃李園序(春夜、桃李園に宴《えん》するの序)」を下敷きにしています。この一文は、春の夜に兄弟で集まって宴を開いたときのことを詠んだ詩篇の序文なのですが、その前置きとしては、あまりにも壮大で哲学的な書き出しで始まります。
夫天地者萬物之逆旅 夫《そ》れ天地は万物の逆旅《げきりょ》にして
光陰者百代之過客 光陰は百代《はくたい》の過客《かかく》なり
そもそも、天地とは万物の旅の宿であり、時間とは永遠の旅人である。
時間を「旅人」、空間を「旅の宿」に喩《たと》えるのは、奇抜とも言えますが、同時に大いに共感も覚えるのではないでしょうか?私たちを含め、すべてのものは、常に停まることのない時間の流れの中にあります。この果てのない時間と空間の喩えの前には、私たちはどうしても自分の生涯を想起せずにはいられません。
このことは、どんな年齢の人であっても変わることはないでしょう。青年であっても、壮年であっても、老年であっても、多かれ少なかれ自分がこれまで歩んできた「客路」を思い出し、そしてまた、これからの「客路」を考えずにはいらないのではないでしょうか?時間の流れに随《したが》う以上、私たちも常に人生という旅路の中にいるのです。
浮生一夢惜分携 浮生の一夢 分携を惜しむ
「春夜宴桃李園序」は、次のように続きます。
而浮生若夢 而《しか》して浮生は夢の若《ごと》し
爲歡幾何 歓《かん》を為すこと幾何《いくばく》ぞ
しかし、はかない人生は夢のように過ぎ去っていく。
楽しいことも一体どれだけ続くだろうか?
この人生という旅路は皮肉なもので、続けていけばいくほど手に入れたものを手放さなくてはなりません。これまでの出会いが多ければ多いほど、それだけ多くの別れがあります。それは、出会ってきた人々、あるいは人以外でも、今までに自分が経験してきたものすべてについて言えることです。
しかし、それが大切な出会いだったからこそ、それは悲しい別れになるのです。悲しい別れが多いということは、逆に言えば、大切な出会いがそれだけ多かったという証拠です。
楽しく幸せな時間があったのは、その出会いがあったから。
悲しく切ない別れがあったのも、その出会いがあったから。
そして、また再び前に進んでいけるのも、その出会いのおかげなのかもしれません。だとしたら、私たちに新たな出会いや別れを厭《いと》う理由はありません。
何如進步餘年路 何如が歩を進めん 余年の路
残された人生、どのように一歩一歩を進めていくのか?常に停まることのない時間の流れの中を生きている私たちには、立ち止まっている時間はないはずです。私たちは旅人なのですから。
李白はこのように続けます――
古人秉燭夜遊 古人 燭《しょく》を秉《と》りて夜に遊ぶ
良有以也 良《まこと》に以《ゆえ》有るなり
昔の人が燭《ともしび》を手に取って夜中まで遊んだのは、
本当に理由があることなのだ。
ここで「本当に理由があることなのだ」と李白が言うのには、単純に人生が限りあるものだ、という理由だけではないように感じます。それは、生きること、それ自体が本当に素晴らしいものである、という気付きにあるのではないでしょうか?
人生には、楽しいことも悲しいこともあります。楽しいだけの人生は絶対にあり得ません。しかし、それでもなお、その出会いと別れの中で、一歩を進める勇気を持つことができたらなら、その人生に後悔はないはずです。
心只不迷途不迷 心只迷わざれば 途に迷わず
人生の旅路を征《ゆ》くということは、甘苦を併《あわ》せ持つ人生の素晴らしさに気付いて、厭うことなく常に歩み続けるということです。旅人は旅を続けるから旅人なのです。そのように心が迷わなければ、その旅路に迷うことは決してないでしょう。
以下に「春夜宴桃李園序(春夜桃李園に宴するの序)」の全文を記します。李白は春の夜の宴の中で一体何を思ったのか――あなたも自分の人生の旅路について考えてみてはどうでしょうか?この年末に「燭を秉りて」夜通し誰かと語り合うのものよいかもしれません。
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古道光陰常過客 古えに道う 光陰常しなえの過客なりと
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浮生一夢惜分携 浮生の一夢 分携を惜しむ
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何如進步餘年路 何如が歩を進めん 余年の路
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心只不迷途不迷 心只迷わざれば 途に迷わず
仄起式、起句踏み落とし「携」「迷」、上平声八斉の押韻です。
「春夜宴桃李園序」
(春夜 桃李園に宴《えん》するの序)
夫天地者萬物之逆旅 夫《そ》れ 天地は万物の逆旅《げきりょ》にして
光陰者百代之過客 光陰は百代《はくたい》の過客《かかく》なり
而浮生若夢 而《しか》して浮生は夢の若《ごと》し
爲歡幾何 歓《かん》を為すこと幾何《いくばく》ぞ
古人秉燭夜遊 古人 燭《しょく》を秉《と》りて夜に遊ぶ
良有以也 良《まこと》に以《ゆえ》有るなり
況陽春召我以煙景 況《いわ》んや 陽春 我を召すに煙景を以てし
大塊假我以文章 大塊《たいかい》 我に假《か》すに文章を以てするをや
會桃李之芳園 桃李の芳園に会《かい》し
序天倫之樂事 天倫の楽事《がくじ》を序す
群季俊秀 皆爲惠連 群季の俊秀は皆《みな》恵連為《た》り
吾人詠歌 獨慚康樂 吾人《ごじん》の詠歌は独り康楽に慚《は》ず
幽賞未已 幽賞 未だ已《や》まず
高談轉淸 高談 転《うた》た清し
開瓊筵以坐花 瓊筵《けいえん》を開きて以て花に坐し
飛羽觴而醉月 羽觴《うしょう》を飛ばして月に酔う
不有佳作 佳作有らずんば
何伸雅懷 何ぞ雅懐を伸べん
如詩不成 如《も》し詩成らずんば
罰依金谷酒數 罰は金谷の酒数に依《よ》らん
逆旅 … 旅の宿。「逆」は迎える意
大塊 … 天地。また、造物主。
假 … 貸し与える
天倫 … 天の定めた人の順序。親兄弟のこと
楽事 … 楽しい事がら
序 … 申し述べる
群季 … 多くの弟たち
俊秀 … 才能が優れていること
恵連 … 六朝時代の詩人、謝恵連
吾人 … 自分
康楽 … 謝霊運。優れた文人で謝恵連の族兄(同族中で年長の者)
瓊筵 … 美しい敷物
羽觴 … 雀の姿に作った盃
雅懷 … 風雅な思い
金谷 … 西晉の富豪、石崇《せきそう》が金谷に作った別荘。金谷園
詩のできない者に罰として三杯の酒を科した故事がある
そもそも、天地とは万物の旅の宿であり、
時間とは永遠の旅人である。
しかし、はかない人生は夢のように過ぎ去っていく。
楽しいことも一体どれだけ続くだろうか?
昔の人が燭《ともしび》を手に取って夜中まで遊んだのは、
本当に理由があることなのだ。
ましてや、この暖かな春が霞たなびく景色で私を招いて、
造物主は私に文章の才を授けてくれたのだから。
この芳《かぐわ》しい桃李(桃とすもも)の園に集まり、
兄弟そろって夜宴を開くにあたって申し述べる。
多くの弟たちの優れた才能は、みな謝恵連のようだ。
一方、自分の詩は一人、謝霊運に慚《は》じるほどである。
未だ静かに賞することを止めず、
高尚な談話はますます清らかに深まってゆく。
美しい敷物を開いて花の前に坐り、
盃を盛んに取り交わして月の下で酔う。
ここでよい詩ができなければ、どうしてこの風雅な思いを表すことができようか。
もし詩ができなければ、罰はかの金谷園での酒杯の数に倣うとしよう。
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