『泥かぶら』単行本の表紙

「美しい心」に出会う

野田 芳樹
2022/10/15

「あなたには、コンプレックスはありますか?」

こう問われたとき、「まったく無いです」と答える人はまれではないでしょうか。

私自身も時折、「自分がもう少し頭脳明晰だったら、人生もっと楽しいだろうな……」と、思ってみたり「もう少し容姿端麗に生まれていたら、どうなっていただろう?」と、見た目でもてはやされる人たちへ憧れを抱いたりすることがあります。

その原因は何だろう?と問い直してみると、誰かに褒められたい、認められたいといった「評価を求めてしまう心」に束縛されている自分がいることに気がつきます。

しかし、周りの評価それ自体は自分ではどうすることもできません。そもそも外側からの評価を気にすること、それこそが日々を生きる上で息苦しさの原因になっているのではないでしょうか?

『臨済録』という禅の書物に「求心歇む処即ち無事《ぐしんやむとろこすなわちぶじ》」という語があります。

「求心」とは、自分の外側に評価や賞賛、あるいは「正解」めいたものを求める心のことで、その心が歇《や》めば「無事」、すなわち本当の安心に気づくことができる、という禅の言葉です。

私はこの語の意味するところを『泥かぶら』という絵本(*脚注参照)に垣間見ます。以下にあらすじを見ていきましょう。


昔々「泥かぶら」と呼ばれた一人の女の子がいました。

泥かぶらには身寄りがおらず、村人たちからは見た目が「醜いから」「みすぼらしいから」という理由で「泥かぶら」というかわいそうな名前をつけられ、馬鹿にされていました。ひどい仕打ちを受けるたびに、泥かぶらは人々を恨み、口汚く反撃するようになっていきます。一方で本心では、馬鹿にされることが悔しく、「私も美しくなりたい」と心の中では泣いているのでした。

ある日、旅の老人に出会い「三つのことを守れば、あなたはきっと美しくなれるだろう」という助言を受けます。それは、

・自分のことを恥ずかしいと思わないこと
・どんなときも笑顔で過ごすこと
・いつでも他者を思いやって行動すること


それを聞いた泥かぶらは、早速その老人の言う通りのことを心がけます。何を言われても笑顔をたたえ、病気の子のために薬草をとってきたり、お年寄りの代わりにたきぎを集めるなど、人々の役に立つことを心をこめて行っていきました。


その積み重ねの結果、村人は泥かぶらに親愛の念をもつようになります。泥かぶらはいつしか自分の容姿のことも忘れ、周囲の人々の喜ぶ顔を見ることが自身の喜びにもつながっていくのでした。


そんなある日、借金とりの悪党・じろべえが村に来て、ある家の借金のかたに娘を連れていこうとします。それを聞いた泥かぶらは身代わりを名乗り出て、その娘の代わりに連れて行かれてしまいます。


ところが、泥かぶらはじろべえに連れて行かれる旅の道中でも、相変わらずずっとニコニコ。そして途中で「じろべえさん、あなたとの旅は身寄りのない私にとって父親と一緒に過ごしているようでとても楽しい」と告げます。そんな様子に、次第に悪党のじろべえの気持ちは温かくなっていきます。そして最後には自分を悔い改めたのでした。


ある朝、泥かぶらが目を覚ますと、そこにじろべえの姿はなく、代わりにこんな置手紙がありました。

おまえはおれのようなあくにんにまでよくよくしんせつにしておくれだった。おれはしょうじきでやさしいおまえのねがおをみていてはずかしくなった。それからむねのおくがあったかくなったよ。(中略)おまえのやさしいえがお あかるいわらいごえ、おれはいっしょうわすれない。ありがとうよ。どうか、しあわせになっておくれ。 

じろべえ

ほとけさまのようにうつくしいこへ


物語にその続きは具体的には書かれていません。しかし私が思うに、これを読んだ泥かぶらは、

「こんな私にも仏さまのような美しい心があったんだ。今まで自分の外見や周りからの評価を気にしていたけれど、そんなことはつまらないことだった。ありのままの私でよかったんだ」

と、安らかな心地に包まれたことでしょう。そして、それからも周囲の人たちへの思いやりをいつも胸にたたえ、自他ともに朗らかになれるような生活を送り続けたのではないでしょうか。


これが「求心」が歇《や》んだ後の「無事」の姿であり、本当の「美しさ」なのではないかと私は思うのです。


泥かぶらは、始めは自分の見た目が嫌で、他の人から悪口を言われたくない、美しくなって認められたいという「外側へないものねだりをする心(=求心)」に自分の心を揺り動かされていました。


そして老人から三つの助言を受けた後も、その「求心」を動機に善行を重ねていました。「美しくなりたい」という、ある意味、自らのエゴために善行を積んでいたとも言えます。


しかし、それを重ねることで、周りの人が喜び笑顔になっていく様子を見て、少しずつそのエゴが剥がれおち、いつしか自分の見た目や他者の評価なども忘れ、周囲に尽くすことが自身の喜びになっていきます。人買いのじろべえに優しい言葉を投げかけたシーンでは、「かわいそうな境遇のこの人に親切にしよう」という思いすら感じないほど自然体で接しています。


そしてじろべえからの言葉が決め手となり、自分の中に元々あった、けれども見えていなかった「仏さまのような美しい心」に気づくことができました。


この物語は創作ですが、私たちは誰しもが「仏さまのような美しい心」を持っていることを教えてくれています。そこに気づくことができれば、先の私の言ったようなコンプレックスや、他者から褒められたり、そしられたりすることなどは、些末なことだと思えるのではないでしょうか。


「求心歇む処即ち無事」――『臨済録』や『泥かぶら』などの語録・物語をよすがに、私たちは「あれこれ自分の外の世界に求めなくても、自身の内にすでに美しい心があるんだ」と安心することができます。


「自分の内の美しい心」に出会ってゆく一つの入り口として、泥かぶらがそうしたように、お互いいつでも他者に対して思いやりの気持ちを胸にたたえ、自分ができることを精いっぱい行っていきたいものです。


*脚注

▼絵本『泥かぶら』
https://www.amazon.co.jp/dp/4916016955

▼演劇『泥かぶら』
http://www.shinseisakuza.com/program/

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