「安心《あんじん》」~世界を踏破する靴
新聞になかなか考えさせられる中学生の投稿記事がありました。
「この世で一番怖いものは何?」という質問に、おばけやテストや怒られること、という例を挙げるのですが、これらには共通点があるというのです。それは、「知らない」ということが恐怖をもたらす原因である、という点です。
つまり、
「おばけを恐れるのは、おばけの正体を知らないから」
「テストを恐れるのは、問題や解答がわからないから」
「怒られるのが怖いのは、その叱責の言葉や与えられる罰がわからないから」
というわけです。
ということは、一番怖いのは「無知」なのではないか?であれば、より多くの知識を得ることで恐怖を克服できる、という結論でした。
なかなかよい考察だと思います。しかし、すぐに一つのことに気付くはずです。それは、すべてのことを知り尽くすことなどできない、ということです。おばけの正体も、すべてのテストの問題や解答も決して知ることはできません。
それでは、この恐れから逃れる術《すべ》は一体どこにあるのでしょうか?
ただ靴の革によってのみ、すべての地上は覆われたものとなる(『入菩薩行論』)
人類は大昔は裸足で生活していたのでしょうが、現代人はもはや裸足で外を歩くことはできません。では、足が傷つかないように絨毯《じゅうたん》などを、地球上のすべての大地に敷き詰めることができるか?というと、そんなことはもちろん不可能です。
では、どうすればいいのかというと……簡単ですね。私たちが普段やっているように、靴を履けばいいわけです。
このお話は、もちろん喩《たと》えです。
世界中から、すべての不安のタネを取り除くことはできません。それが、取り除くことができる原因であるならば、すみやかに取り除くべきです。しかし、絶対に取り除くことのできない原因があるということも、もうご存知でしょう。
大人になれば、思い通りにならないことや知ることができないことが山ほどあるのが、すぐにわかります。この知ろう、学ぼうという姿勢はとても大事なことです。しかし、知ることですべてが解決できると思うことは、大変危険で逆に自分を苦しめることにもなります。
知識や情報という自分の「外」にあるものだけに頼っていては、いつかそれで解決できない問題に行き当たったときに、どうすればいいのかわからなくなってしまいます。
本当に知るべきなのは、「自分の外側」でなく「自分の内側」。本当に大切なことは、自分が知らないということを知り、それを恐れないことです。そのような「心の靴」を履いてゆけばよいのです。
恐れを克服しようとしているということは、それによって安心を得ようとしているということです。しかし、順序が逆なのです。安心であるからこそ恐れに支配されることがないのです。
仏教では、そのような惑いのなくなった安らぎの心を「安心《あんじん》」といいます。
安心は、はじめから自分の中にあります。世界のどこかに安心があるわけではありません。それなのに、人は外の世界に安心を求めてしまいます。それでは、すべての大地を絨毯で敷き詰めようとするようなものです。もともと自分自身の中にあるものなのですから、あとはそれに気付いてゆけばよいのです。それはすなわち、心の探求の旅でもあります。
世の中は、わからないことだらけです。しかし、そんなわからないことだらけの世の中で、迷いながらでも自分自身の脚でしっかりと立つことができたのなら、どのような場所でも、どのような時でも、りっぱに歩いて行くことができるでしょう。それでこそ、得た知識や情報も十二分に活用していけます。
この「安心《あんじん》の靴」を履いたとき、私たちは、はじめてこの世界を踏破できるのです。