飛行機に乗った観音様

亀山 博一
2023/5/15

数年前のことです。飛行機の搭乗口で、リュックを背負った5歳ぐらいの男の子を見かけました。「ママもすぐに行くからね」となだめるお母さんの服にしがみつき、「ひとりで行くのイヤ!」と大きな声で泣いています。どうやら、お母さんは一緒に行けないようです。

やがて優先搭乗が始まり、男の子は悲しげな表情で何度も振り返りながら、乗務員さんに手を引かれて行きました。目を真っ赤にしたお母さんは、手を振りながら心配そうに見送っていました。

私が搭乗すると、男の子は2列前の席で息を殺して泣いていました。窓の外を見ながら唇を噛み締めています。おそらく初めての一人旅なのでしょう。彼の心細さを想像すると、私まで胸が苦しくなるようでした。しかし、幸いなことに、その思いは杞憂に終わったのでした。

隣の初老の男性が「鼻水チーンしよか」と、ティッシュで男の子の鼻をつまんであげたようです。盛大に鼻をかむ音が聞こえます。

後席の女性が「汗だくやね〜」と帽子を脱がせて、自分のタオルで頭や顔を拭いてあげます。

前席のおばあさんが「ひとりで偉いな、アメちゃんどうぞ」と飴玉を差し出しています。

そこへ、乗務員さんが「はいどうぞ」と、素敵なオモチャとお菓子を持って来てくれました。

人々の優しい眼差しが男の子を見つめ、いくつもの手が差し伸べられていました。「ありがとう!」という明るい声が聞こてきました。

約50分後、飛行機は目的地に到着しました。乗務員さんに導かれた男の子は、「バイバイ!」と笑顔で手を振りながら、元気に降りていきました。まわりの乗客たちも、みんな手を振っていました。

結局、私は遠くから見ていただけでした。彼のために何もしてあげられませんでしたが、なんとも清々しい気分で飛行機を後にしました。私は旅を続けながら、しみじみと「観音様《かんのんさま》」について考えたのでした。


皆様よくご存知の観世音菩薩(観音様)は、大いなる慈悲で私たちを救って下さる菩薩様です。慈悲とは相手の心から苦しみを取り除き、安らぎを与えることです。

私たちは、つらい時や悲しい時、あるいは誰かの無事やしあわせを願う時、観音様にお祈りをします。観音様は、そんな私たちをいつも見守り、言葉にならない心の声を感じ取って下さいます。そして、その時その人にとって必要なお姿に変化して現れ、救いの手を差し伸べて下さると言われています。

それでは、観音様はどんなお姿をされているのでしょうか?
どこにいらっしゃるのでしょうか?
どのように私たちを助けて下さるのでしょうか?

円覚寺の釈宗演老師は、こう説かれています。
 

「我々は年老いたるも幼きも、皆おしなべて観世音菩薩の現れなのです。男でも女でも、皆さんのような在家の人でも私どものような僧侶でも、心から人を助けたいと願う人は皆総て観音様なのです」

(釈宗演老師『観音経講話』春秋社)

また、観音様の功徳を讃える『延命十句観音経和讃』には、このように歌われています。
 

「苦しみのぞきもろともに/しあわせ祈るこころこそ/われらまことのこころにて/いのちあるものみなすべて/うまれながらにそなえたり」

(横田南嶺老師「延命十句観音経和讃」)

観音様は、どこか遠くにおられるのではなかったのです。実は、私たちが苦しんでいる時、救いを求める心の声に気付いて、親身になって助けて下さった方々、その一人ひとりが尊い観音様だったのです。


目の前で苦しむ人を放っておけない、全ての人が安らかであってほしいと願わずにはいられない気持ち。頭で考えるよりも先に私たちを突き動かすような、素直な思いやりの心。そんな「まことのこころ」を、人はみな生まれながらに具えているのです。観音様とは、そのような私たちの純粋無垢な心を人の姿に見立てた菩薩様だったのです。

男の子の悲しみを感じて手を差し伸べた人たちは、それぞれがティッシュやタオルや飴玉を手にした観音様。ほんの小さな親切かもしれませんが、幼い男の子にとって大きな救いとなったことでしょう。そしてもちろん、遠く離れた地上から我が子の無事を願うお母さんは、男の子にとって一番大切な観音様です。

この出来事は、私に大切なことを思い返す機会を与えてくれました。私のような未熟で失敗ばかりの人間が今日まで何とか生きられたのは、両親、家族、先生、お師匠様、どんな時も見捨てずにいてくれる心強い友人たち、そして檀家さんや地域の皆さんなど、本当に沢山の人のおかげであると、改めて痛切に気付かされたのでした。

どこにいても、どんな時でも、必ず観音様が見ていて下さった。
必ず誰かが見守り、助けて下さっていたのです。


ところで、観音様の慈悲は「大慈悲(大悲心)」と呼ばれています。大慈悲とは、あらゆる命を分けへだてなく生かす太陽の光や天地の恵みのように、広大無辺でとらわれのない心。「誰かを助けよう」という思いすらないのに、まわりの人がいつの間にか救われているような人こそ、本当の観音様なのでしょう。まさしく理想の人間像ではありますが、実際に目指そうと思っても、なかなか大変なことです。

しかし、そのような難しいことはさておき、まずは私たち一人ひとりが我が身をよく振り返り、他者の慈悲によって生かされているという紛れもない事実に「気付く」ということが、大切ではないでしょうか。

謙虚に素直に、今の自分を静かに省みることから始めてみましょう。きっと、「生きるということは、多くの人に救われているということ」と気付くことでしょう。気付いたら、自然と感謝の念を抱かずにはいられないはずです。感謝の気持ちに目覚めたら、目の前の人に親切にせずにはいられないことでしょう。

あの男の子も、いつか飛行機での出来事を思い出すことでしょう。もし成長した彼が泣いている子供を見かけたら、手を差し伸べずにはいられないのではないでしょうか。そう、自分がしてもらったように。

自然な気付きと小さな感謝の繰り返しによって、私たちの「まことのこころ」は、さらに生き生きとはたらき始めるのではないでしょうか(「気付き→感謝→行動」の3Kですね)。

その時の自分にできること。まずは、それで十分。「慈悲とは何か?」などと考え込むよりも、身の回りの小さなことから始めれば良いと思うのです。ちょっとした意地悪や無関心が深く人を傷付ける反面、たとえほんのささやかな気配りであっても、人の心は確かに救われるのですから

相手を思い、みんなが平安であれと願う一人ひとりの小さな真心によって、私たちはお互いに救われ、お互いに生かされているのです。


さて、乗り合わせた観音様たちに助けられた男の子は笑顔で去っていきましたが、笑っていたのは男の子だけではありませんでした。搭乗した時はよそよそしく押し黙っていたのに、最後は男の子のまわりにいた大人たちがみんな、微笑みながら手を振っていたのです。

それは、飛行機での一人旅という大冒険をやり遂げた男の子と一緒に、大人たちが無邪気に喜びを分かち合っているような、心温まる情景でした。互いに言葉を交わすこともなかった乗客の間に、親密で和やかな空気が生まれました。旅の途中で、心の中にポッと明かりが灯ったような、素敵なひとときでした。

そう考えると、救われたのは男の子でなく、私も含めた大人たちの方だったのかもしれません。

救ったことにも救われたことにも気付いていないあの男の子こそ、リュックを背負って飛行機に乗った、本当の観音様だったのではないでしょうか。

やはり、いつでもどこにでも、観音様はいらっしゃるのですね。
 

 
大本山南禅寺発行『南禅』127号(令和5年1月1日号)に初掲載。転載許可を得て加筆しました。
→ 臨済宗大本山 南禅寺 公式サイト
 

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