且坐喫茶~心が沸騰するとき
禅語を味わう「且坐喫茶《しゃざきっさ》」
訳せば「まあ坐ってお茶でも飲みましょう」でしょうか。
なんだか簡単すぎでは?と思わせるところに禅の世界の面白さがあります。ということは、単に茶を飲みましょうと言っているのではありません。
「茶」は、実は自分の中にある怒りを意味します。怒りという茶は、おそらく火傷するほど熱く、そして味は渋いに違いありません。うまく淹れれば渋味の中にも甘みが感じられるいい味が出せるというのに。
せっかくの茶がそんなお粗末になってしまうのは、ひとえに淹れ方の問題です。沸騰したお湯を直接茶葉の入った急須に乱暴に注いでしまうと、その乱暴さがそのまま茶の味となって現れます。茶というのは淹れたその人の心理状態を反映するものです。
うまく淹れられるときもあれば、熱く渋い怒りの茶になってしまうこともあります。でも茶は本来飲むためにあるもの。どんなにまずくても自分で淹れた茶を自分で飲むということが、怒りっぽい自分と向き合うということになるのではないでしょうか。それが「喫茶」ということです。
まずい茶を飲むようにまずい自分を飲む。そして一旦リセットする。
リセットしたら、できれば今度は、湯冷ましをかけた湯でゆっくりと茶を淹れましょう。
そうやって茶を淹れればいい味が出るように、自分の心も怒りにまかせて乱暴に扱わずに、「且らく坐って」じっくりと物事に取り組んでみたら、何ともいい味が出るかもしれません。
じっくりと淹れた美味なる茶は、いろんな事を教えてくれます。
茶道の指南書『南方録』には、
「水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶を点てて、仏にそなへ人にもほどこし、吾ものむ、花をたて香をたく、みな仏祖の行ひのあとを学ぶ也。」
とあり、たった一椀の茶にも自然の恵み、人の恵み、あらゆるご縁(自分を 生かしている力)が詰まっていて、その茶を飲むということは、ご縁と自分がひとつになっていく、頂いたご縁に感謝するということでもあります。
茶一椀にそこまで凝縮した世界を見いだすことが出来れば、もう自分で淹れたまずい茶を飲むこともないはずです。
是非 、会社や家で、茶やコーヒーを飲む時に、この言葉を思い出して、目前の一椀に向き合ってみて下さい。