「放下著」~下せないなら担いでいく(1)
連載『「放下著」~下せないなら担いでいく』(全5回)は、禅語「放下著」を読み解いていくシリーズです。趙州和尚が、迷いを捨て去ったと主張する弟子に言い放った「放下著・下ろしなさい」という言葉。そして、それでも納得出来ない弟子を導いた「担いでいけ」という教えの真意とは?
まずは、テーマの禅語から。
「放下著《ほうげじゃく》」が収録されている問答を見ていきましょう。
洪州新興の厳陽《げんよう》尊者、諱《いみな》は善信。
初め趙州《じょうしゅう》に参じて問う、「一物《いちもつ》も将《も》ち来たらざる時如何。」
州曰く、「放下著。」
師云く、「已に是れ一物不将来《ふしょうらい》、箇《こ》の甚麼《なに》をか放下せん。」
州云く、「放不下ならば、担取《たんしゅ》し去れ。」
師、言下《ごんか》に於いて大悟す。
(『五灯会元』巻四、厳陽善信尊者)
洪州とは現在の中国江西省北部一帯を指す地名です。また、新興とは江西省九江市郊外の厳陽山にあったとされる新興寺を指します。その由緒をとって厳陽尊者という尊称で呼ばれる人が、善信というこの問答の主人公です。
善信は、問答中に出てくる趙州和尚の法を嗣《つ》いだ禅僧です。その嗣法《しほう》した時の様子を示しているのが、この問答です。
答えている趙州という人は非常に特徴のある人です。詳しくはこの「禅人」に、私が執筆している趙州についての解説文がありますので、ご覧ください。「学ぶ」という項目の「禅の名僧」というコンテンツに「趙州従諗」があります。
とはいえ、かいつまんで話しますと、趙州は、時代は晩唐、山東省に生まれ、南泉という人について修行、大悟しその元で60歳辺りまでさらに修行、南泉が亡くなるとそれから諸方を行脚して、80歳でようやく河北省の石家庄郊外にある観音院という小さな庵寺に住持して、なんとその後120歳まで生きて民衆に布教したという禅僧です。
その禅の特色は、「口唇皮上《くしんぴじょう》に光を放つ」と言われる、言葉遣いの巧みさです。厳しい態度や言葉ではなく、やんわりとしていながら、禅の肝心要を押さえた言葉の数々が現在まで数多く伝わっています。
問答にもどります。
禅問答の例にもれず、この問答も一見すると矛盾に満ちています。
まず、善信の「一物も将ち来たらざる時如何・何物も持っていない時というのはどうですか?」という問いに対して、趙州和尚が答えたのは「放下著・下ろしなさい」という言葉でした。
「放下」がおろすという意味で、「著」は語感を調えるもので特に意味はありません。だから「放下著」というと、「下ろしなさい」という意味でいいかと思います。
何物も持っていないと言っているのに、下ろしなさいでは通常はつながりません。このつながらない問答をつなげる、矛盾がそうでなくなる禅の教えが「とどまらない」ということです。
何も持っていないと善信が言ったのは、ハッタリではなく、それまで善信は趙州のもとで坐禅修行に長年取り組んできたという事実があり、坐禅修行して、自分は妄念・迷いが無くなったということを、「一物も将ち来たらざる時如何」、と表現したのです。
だから一物というのは、妄念や迷い、煩悩のことを言っているわけです。善信のそうした自信からくる問いが「一物も将ち来たらざる時如何。」です。
しかし師の趙州は、善信の問いの甘さを見逃しません。すかさず「放下著」と言います。
本当に善信に妄念が無いなら、「一物も将ち来たらざる時」ということも無いはずです。
なぜなら「とどまらない」からです。
そうなると、「一物も将ち来たらざる時如何」、という問い自体が不要になります。
一物も持たないと言いながらそのことを問うて、一物も持たないという妄念を抱えてとどまっているという誤りに、善信自身は気付いていないのです。
そこを見逃さないのが趙州です。だから、その一物も持たないことまで下ろせと言っているわけです。
哲学者として名高い、かの鈴木大拙博士に禅の「とどまらない」ことの説明として、「妖怪退治」の話があります。
木こりが山中で木を切っていると、妖怪「さとり」が現れました。
妖怪は人の心を読む術を会得しています。木こりが生け捕りにしようとした途端にさとりに見抜かれてしまう。それならいっそ、斧で打ち殺してしまえと心を決めるが、「おれを殺す気だな」とさとりにばれてしまい、果たせません。とうとう木こりは妖怪退治をあきらめて、木を切ることに専念しました。
すると、無心に振るっていた斧の頭が柄から抜けて飛んでいき、木こりのたくらみをことごとく見抜いて、勝ち誇っていた妖怪さとりを一撃で倒しました。
という話です。
善信がいう、一物も持たないということは、いわゆる悟りの言い換えです。つまりこの話の妖怪さとりを得ようとすることと同じです。「悟りを得た」と思った途端に、悟りというものは、当事者のふところをすり抜けていってしまう。
ならばどうするか。それは木こりがやったように妖怪さとりを得ることに心をとどめないことです。そのとどめないことを、趙州は「放下著」と言ったのです。
(第2回へ続く)





