努力の成果は純度100%の自分

染川 龍船
2025/10/15

「精進」という言葉は日常でも良く耳にする言葉ではないでしょうか。一般的には、目的達成へと向かって努力をする意味合いで使われています。

この「精進」という言葉は、実はもともとは仏教の言葉で、意味も同じように修行につとめ励むことをいうのですが、しかし、禅の世界ではただ単に努力するという意味には留まりません。


この目的達成へと向かって努力をするということは、その人、その人によってその努力を注ぐ対象は千差万別だと思います。

例えば、高校球児が甲子園を目指して練習する、専門学生が資格の勉強をする、作家が芥川賞を目指して執筆する、メジャーデビューを目指してバンド活動をする等々……。

いずれにしても、世間一般では、目的があって努力を行うというのが自然な考え方です。

しかし、禅の世界では、努力と目的を結びつけるということをしません。なぜなら、禅では「本心からそのものと向き合うこと」が一番大切だと考えるからです。それこそが禅における努力であり、結果はオマケでしかありません。

先ほどの例えでいうと、高校球児の目標といえば甲子園出場でしょう。しかし、自分達が地区予選を全く戦わずして、甲子園に出たいという高校球児はいないと思います。他人が考えたストーリーで、芥川賞を受賞したい作家もいないと思います。

なぜなら、甲子園に出場することや、芥川賞を受賞することが本当の目的なのではなく、「野球に挑戦すること」「文学に挑戦すること」という「行為そのもの」が目的だからです。

高校球児であれば「野球が好きで好きでたまらないから野球をやっている」のです。日々の練習の努力や試合本番中の頑張りも、常にその心とともにあります。

禅における努力とは、一心になってそのものと向き合うことなのです。一心になるとは、「その行為と目的に区別がなくなっている」と言ってもいいでしょう。

しかし、結果や目的に心がとらわれると、この一番大切な「自分の本心」=「自分が心から本当にしたいこと」を見失ってしまいます。結果にとらわれるとは、成果や世間の評価に目を向けてしまうということです。

「自分の本心」を見失って成果や世間の評価にとらわれるから「報われなかった」「何の意味があったのか?」と自分の努力に価値を付けてしまうのです。


今から6年前、東京ドームで元プロ野球のイチロー選手Wikipedia)の引退試合が行われました。

最後のセレモニーが終わってなお、ファンは球場を去ろうとせず、イチローコールが湧き、観客の手が次々と上がってスタンドにウェーブが広がりました。その予想外の出来事に応えるように、再びグラウンドに現れたイチロー選手が、ファンに手を挙げ歩いて回る姿がとても感動的でした。

その直後に開かれた引退会見(*註)では、イチロー選手が「努力の天才」と呼ばれる理由がまざまざと伝わってきて、私の胸にも深く刺さりました。

以下は、会見での記者たちとのやりとりです。
 

記者:子供の頃からの夢であるプロ野球選手になり、これだけ成功をなさって今、イチローさんは何を得たと思われますか?

イチロー:成功かどうかってよく分からないですよね。じゃあどっからが成功で、そうじゃないのかっていうのは、まったく僕には判断できない。まあだから、成功という言葉は、僕は嫌いなんですけど。

メジャーリーグに挑戦する、まあどの世界でもそうですね、新しいことに挑戦するっていう事は大変な勇気なんですけど。

ここは敢えて、「成功」という表現を使いますけど、成功をすると思うからやってみたい。それができないと思うから行かない、という判断基準では、後悔を生むだろうなと思います。

やりたいならやってみればいい。できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。その時にどんな結果が出ようとも後悔はないと思うんですよね。

イチロー選手の言う、

「成功をすると思うからやってみたい。それができないと思うから行かない、という判断基準では、後悔を生む」とは、結果や評価に目を向けてしまうことが迷いの原因であるということ。

そして、

「できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。その時にどんな結果が出ようとも後悔はないと思う」とは、結果や評価に目を向けずに、自分の「やってみたい」という本心に向き合って努力をすれば、どんな結果になろうと後悔や畏れは生まれないということです。


また違う記者からの質問には、こんなことを述べています。
 

記者:イチロー選手の生き様でファンに伝えることや、伝わっていたら嬉しいなと思うことはありますか?

イチロー:生き様というのは僕には分からないですけど。生き方という風に考えれば、人より頑張ることなんてとてもできないですよ。あくまでも、量りは自分の中にある。

それで自分なりにその量りを使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっとずつ越えていく、ということを繰り返していく。

そうするといつの日かこんな自分になっているんだっていう状態になって、だから少しずつの積み重ねが……それでしか自分を越えていけないと思うんですよね。一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎてそれは続けられない。

地道に進むしかない。まあ進むだけではないですね。後退もしながら、ある時は後退しかしない時期もあると思う。でも、自分がやると決めたことを信じてやっていく。でも、それが正解とは限らないですよね。間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけど、でもそうやって、遠回りすることでしか本当の自分に出会えない。

今日のゲーム後のファンの方の気持ちですよね。それを見た時に、自分なりに重ねてきたことを……ひょっとしたらそんなところを見て頂いていたのかという風に思うと嬉しいですよね。

プロ野球といえば結果と評価が全ての競争の世界です。そこで誰しもが認めざるを得ない、大成功を収めたイチロー選手ですが、そのイチロー選手が「人より頑張ることなんてとてもできない。量りは自分の中にある。」と答えています。

それは、あくまでも比較の対象は、自分以外にはないということであり、だからこそ、引退会見での彼の発言は、これまでのキャリアや評価に重きを置いていないように聞こえるのでしょう。

「地道に進んでいくしかない、後退しようとも、間違っていようとも自分を信じてやっていく。遠回りすることでしか本当の自分に出会えない」というのは挑戦を続けるということです。

ものごとに挑戦するとは、結果や評価にとらわれることなく、自分の信念に基づいて勇気をもって行動するということです。

たとえそれが間違っていようが、遠回りになろうが、自分の本心と向き合って努力を続けているならば、それを継続している全ての瞬間が、本当の自分との出会いになります。


禅の世界での「精進」とは、結果にこだわらないで自分の信念と向き合い続ける行為です。つまり、それが何であれ「精進」していくという行為そのものが尊いということです。

禅の修行といえば、坐禅のイメージがあるかもしれませんが、実はそれと同じくらい掃除や畑仕事、薪割り、飯炊きなど……日常の仕事に精一杯取り組むことを、とても大事にします。

なぜなら目的にとらわれず、ものごとに一心となってつとめ励んでいる時は、迷いが生まれないからです。言い換えると、その一瞬一瞬が、本当の自分と向き合っている瞬間だということです。


結果や評価ではなく、やりたいと思ったことに挑戦をし続けること。それが本当の自分との出会いだと語ってきたイチロー選手。会見でイチロー選手が伝えてくれたことを禅の視点からアウトプットできないだろうかという思いが湧いてきました。

しかし、その時はすぐに「自分には到底できない。笑われるだけだ。」という思いが頭をよぎって諦めました。

あれから6年、私事ですがいま一度、この禅人というサイトを通して、「伝えたいと思うから書きたい」という気持ちが強くなりました。「やりたいと思えば挑戦すればいい」というイチロー選手の言葉が再び、私の背中を押してくれたのです。

そう考えると、やはり私たちはイチロー選手が成し遂げた大記録ではなく、本心と向き合い、挑戦し続けた彼の勇姿に感動を覚え、勇気を貰っていたのではないかと思うのです。

もしも、精進することに結果があるとすれば、それは自分の本心からものごとに向き合って、ひたむきに取り組んでいる純粋なその人の姿ではないでしょうか。だとしたら、心からものごとに精進するその人に、きっと私たちは評価からではなく、その姿から感動や勇気を覚えることでしょう。



(*註)

【全編】イチロー選手が引退会見「後悔などあろうはずがない」(2019年3月21日)
「Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE(ザ・ページ)」公式YouTubeチャンネル




 

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