花は誰のために咲く?

巨島 善道
2024/3/17

桜の季節

春のお彼岸が終わるころには桜のシーズンがいよいよはじまる、という地域も多いのではないでしょうか。この時期になりますと、桜の開花宣言などがよくニュースにも取り上げられます。冬の間は誰も桜のことなど気にしないのですが、いざ花が咲くころになると、いても立ってもいられない、日本人の面白いところだと思います。

  

百花春至って誰が為にか開く

桜の開花宣言がニュースになると、私は次の禅語を思い浮かべます。

「百花春至って誰が為にか開く」

春になれば桜はもちろんのこと、様々な花があちらこちらに咲き乱れます。では、その花々はいったい誰のために咲いているのか。臨済宗天龍寺派の管長をお務めになった平田精耕老師は、ご著書『禅語事典 より良き人生への二百五十のことば』のなかで、この禅語について次のように解説をされています。
 

いったい、花はなんのために咲くのでしょうか。いうまでもなく、誰のためでもなく、また誰に見せようとしているわけでもありません。といって自分のためでも人のためでもありません。ただありのままに咲いているのです。自分の全生命を遺憾なく発揮して、精一杯にただ咲いているのです。

私たちが花を見て「きれいだな」と感じるのは、「自分の全生命を遺憾なく発揮して、精一杯にただ咲いている」、その姿に心を動かされているのかもしれません。

  

「害虫」「益虫」「ただの虫」

以前、『毎日小学生新聞』という新聞に、内山節《うちやま たかし》さんという哲学者の方が書いた記事が載っておりました。『「ただの虫」の役目』と題して、友人の宇根豊《うね ゆたか》さんという方が、水田で暮らしている虫たちの調査をしたときの話を書いていらっしゃいました。少しご紹介します。
 

調べてみると、水田では100種類を超える虫たちが暮らしていると言うことがわかりました。その中で稲にとって害虫と言える虫はごくわずかでした。害虫を食べる益虫もごくわずかでほとんどの虫は害もないが益もない「ただの虫」でありました。ごく少数の害虫と益虫がいて大多数はただの虫。こんな組み合わせで水田の自然は作られているのです。

(中略)

そういう様々な結び合いの中では、みんなが何らかの役割を果たしている。人間の都合で見てみると、害虫や益虫がいたり、ただの虫がいたりするのですが、私たちが大事にしなければならないものは様々な生き物達によって作られている自然なのではないか。その自然が水田では稲を育てている。ここではすべての生き物が、何らかの役割を果たしながら生きている。友人の宇根さんは、 こんなふうに感じたのです。
 

『毎日小学生新聞』令和2年8月9日より

ひとつの水田を調べただけで、100種類を超える虫たちが暮らしている、ということにも驚きですが、そのほとんどが害虫でも益虫でもない、「ただの虫」であるということも大変面白いものだと思いました。

さらに一歩踏み込んで考えてみると、「害虫」「益虫」「ただの虫」というものは、いずれも人間が自分の都合で分別《ふんべつ》し、勝手に呼んでいるだけのことです。実際には、それぞれの生き物が、大きな自然の営みの中で自分の為すべきことを一心に為している。大きないのちの流れのなかで、自分が与えられた「今ここ」を精一杯に生きている。それが自然の姿なのです。
 

「分別する」人間、「分別しない」花

では、私たち人間はどうでしょうか。確かにそれぞれが、それぞれの立場で一生懸命に生きていることに間違いありません。しかし、身の回りにおきた様々な出来事にとらわれて、一喜一憂しすぎる、ということはないでしょうか。

自分たちにとって都合の良い虫を「益虫」と言い、都合の悪い虫を「害虫」と言うのと同じように、私たちは自分の都合で物事を「良いこと」「悪いこと」と分別する癖があります。

そして物事が自分の思った通りにならないと、怒ったり嘆いたりして、益々自分の心を苦しめてしまいます。

反対に物事が思った通りになれば、その心地よい状況に執着を起こし「何とかその状況を続けたい」と願うあまり、不安や恐怖に苛まれていつのまにか自分の心を苦しめてしまいます。こうした「良い」とか「悪い」とかいう分別、はからいを起こすことが私たちの迷いや苦しみにつながっているのです。

一方、花には「まわりの人間に、きれいって言われるように咲いてやろう」とか「他の花に比べて自分は地味な花だなぁ」というような、分別がありません。置かれた場所で、精一杯咲いている。迷いのない、その姿に私たちは学ぶべきことがあるのではないでしょうか。
 

精一杯生きよう

最後に、松原泰道師がご著書『命ひとすじに』(善本社)の中で紹介されていた、ある中学生の詩をここに掲載させていただきます。

「花が咲いている 精一杯咲いている わたし達もぼく達も 精一杯生きよう」

春のお彼岸が過ぎると、新しい年度が始まります。それぞれが自分の置かれた場所で、自ら為すべきことに精一杯取り組んで、新年度を生き生きと歩んで参りましょう。






※この記事は、臨済会発行『法光』令和5年春彼岸号に掲載されたものを加筆修正したものです

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