今のところは【4】〜出直しのすすめ

山田 真隆
2024/1/8

この連載は、松本市神宮寺様の寺報『山河』に掲載された禅人代表・山田真隆執筆のテキストを、谷川住職のご協力を得て転載したものです。(今回の記事は2023年・新春号に掲載されたものです)


今年こそは

年が改まって恒例の「今年こそは」という意気込みも、これだけ毎年病禍が続くと、いささか空しく響くだけのように感じてしまいます。また昨年は病禍に加え、戦禍も加わってしまいました。

とはいえ、暴落した「今年こそは」であっても、それなりの期待を込めるのが人情というものです。こういったご都合主義も、人が持つ一種の、生きるためのたくましさだと思います。

「出」と「直」

「出」という字は、足が凹みから出る様子を表す象形です。
そこから凹んでしまった自分を、離れて見直すというイメージが沸きます。

日常使われる、「出世」・「出身」の言葉も、元はともに仏教用語で、悟ることを意味します。つまり悟ることも現状に居座らず、まず今ある状態から離れることを求めているからです。

また「出る」は、私的な場所から公的な場所へ移動することを特に言うようです(『日本語をみがく小辞典』角川ソフィア文庫)。

私的な空間、例えば部屋に入るとは言いますが、部屋に出るとは言いません。でも部屋から廊下に出るという言い方はします。確かに、部屋より公的な廊下という場所に移動することを「出る」としています。

ですから、出るということは、とどのつまり、最も私的な「自分」という思い込みから移動することと言えます。こうなると俄然禅的な意味合いが色濃くなってきました。

そして「直す」です。

『広辞苑』では「曲がったこと・乱れ・間違いなどを本来の正常な状態に戻す」とあります。

「直」は、禅宗でもよく使う字です。禅語にもよく登場します。

禅で使われる時は『広辞苑』の意味とは少し違い、「本来正常であったと気付くこと」です。

正常に戻すことと正常と気付くこと。この違いは、それまでの間違った状態をどうとらえているかだと思います。戻すは間違ったことを否定しているのに対して、気付くの方は間違いを決して否定していません。間違っていたとしても、それはその人の生きた証です。それを否定することは禅ではありません。

出直すことには、これだけの禅の教えが含まれています。それは気休めではなく、確かな救いです。

根源的な力に気付く=出直し

出直しが説かれている、禅の話です。
 

ある僧が師匠の元に行って、「仏法とは何でしょうか?」と尋ねました。すると師匠は椅子から下りてその僧の襟首を捕まえると、横面を殴って、向こうへ突き倒しました。僧は何が何だかわからなくなり、とりあえず起き上がりました。そのまま何もせずボーッと佇んでいると、近くにいた修行僧が「なぜあなたは ありがとうございました と感謝の礼拝をしないのですか」と言われ、そこでとたんに悟った、ということです。

『碧巌録』第三十二則「定上座問臨済」

突き倒されたら即座に起き上がる。

この僧に限らず誰でもそうすると思います。

起き上がることができるのは、その力が私たちに元々具わっているからで、禅でいう仏法とは、難解な経典の内容ではなく、本来私たちに具わっている、自分で自分を救う力のことです。だから問うて求めなくとも、自ずと仏法はこの僧に本来具わっているのです。

ですが、僧は自ら起き上がっても、なおもしばらく突っ立っていました。そして話の最後にそばの修行僧に促されて、僧はようやく自らの仏法に気付き、そのことを示してもらったことに感謝の礼拝をしたわけです。

己の力に気付かないこの僧は、そのまま日頃の私たちの姿です。皆さんそれぞれに自分を省みれば、起き上がることだけでなく、いろんな力を駆使して日々を生きているはずです。

朝目覚め、顔を洗って、朝食をとって、仕事に出かけ、などという平凡な一日の中にも、倒されたら起き上がるような、生きるという選択を、その都度絶えず繰り返している。

それも自分で意識することなく、ごく自然に。
そういう根源的な力が、自分に具わっていることに気付くことが、禅の教えを元にした出直しです。

気付かずに感謝すらせず、自らの力を信じなくなる、そんなときにこそ、心の出直しが必要です。人生生きていれば、そういう時が誰にでも一度や二度はやってきます。

いつでも出直せる

教育者として知られる東井義雄さんにあったエピソードです。
 

ある真夜中、東井さんの家の電話のベルがけたたましくなりました。こんな夜中に誰だろう?と、急いで受話器を取りました。すると、もう一刻の猶予もないという感じの、聞き覚えのない、若い男の人の声が聞こえてきました。

「私の周りのみんなが、裏切り、背き、見放し、私はもう生きる気力を失いました。それで、今から首を吊ろうと思うのですが、ちょっと気に掛かることがありまして……、先生にお電話しました」

「何が気にかかるんですか?」

「“南無阿弥陀仏”と称えて首を吊ったら、間違いなく極楽へ行けるんでしょうか」
というので、東井さんは思わず、怒鳴り付けました。

「できません、ダメです。やめときなさい。あなたのこしらえものの“南無阿弥陀仏”なんか、何の足しにもなりませんよ」と。

すると、今度は驚いたという感じの弱々しい声で「ではどうすればいいのですか?」と聞いてきました。

東井さんは「どうすればいいかって。あなたは、周りのみんなが裏切り、背き、見放した、と仰る。それならば、周りのみんなどころか、肝心要のあなた自身が、今、自分を見放そうとしているじゃないですか。そのあなたまで見放そうとしているあなたを、なお見放すことが出来なくて“つらいだろうけど、どうかもう一度考え直して、しっかり生きてくれ”と必死になって叫んでいらっしゃるお声があなたには聞こえないんですか?」

「どこにもそんな声なんか……」

「何を言っているんですか。今あなたは、激しく、こちらにまで響いてくるような音を立てて、呼吸しているじゃないですか。その呼吸が、ほら聞こえませんか。“どうか考え直してくれ、生き直してくれ”と叫んでいるのが!あなたの胸の鼓動が“死なせてなるものか”と叫んでいるじゃないですか。それが本当の南無阿弥陀仏のお声なんですよ。この本当の南無阿弥陀仏に気付かなかったら、あなたの人生は、生きても死んでも空しいんです」と東井さんが言うと、

「何だか、大変な思い違いをしていたようです」といって、電話は切れたそうです。

生きる選択をし続けられるという、素晴らしい力を持ちながら、私たちは時にその力を、この電話の人のように、自分で裏切ることもあります。自分を救うのも自分なら、自分をダメにするのも自分だということを知らなければなりません。

だからこそ、出直すことが大事なのです。それはいつでもどこでも始められます。出直しさえすれば後は、本来の生きる力が何とかしてくれます。

倒れても自分で起き上がる限り、人の生きる力を妨げるものはありません。

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