「願い」について

巨島 善道
2024/1/1

新年を迎えて

明けましておめでとうございます。

新年を迎え、初詣に行かれる方も多くいらっしゃるかと思いますが、初詣では様々な願い事を神仏にお祈りされるのではないでしょうか。実はこの「願い」というものについて、考えさせられる出来事が昨年ありました。

  

病院で拝んだ初日の出

私事で恐縮なのですが、一昨年のお正月は病院のベッドの上で迎えました。二十年来の付き合いである持病が急に悪化し、その年の暮れに入院、そのまま病院で年越しをしたのでした。

その病院は小高い丘の上にあったため、病院の窓から初日の出を何十年か振りに拝むことが出来ました。

普段はお寺で正月を迎えていますので、寺の行事の関係でなかなか初日の出を拝みに行く、ということは出来ません。そんなわけで「これは有難い機会をいただいたなぁ」と思いました。

さて、そんな久々の初日の出を拝みながら、私は自身の「身体健康」をお祈りしました。一日も早く退院したい、という偽らざる本心からの願いでした。その願いが通じたのか、一か月後には無事に退院することが出来、その後しばらくは自宅療養をして体力回復に努めておりました。

入院中は「まずは退院できるくらいに回復すれば、それで十分です」と心底思っておりました。しかし、それが叶って自宅に戻ると今度は「病院では食べることが出来なかった、お寿司が食べたいな。あ、ラーメンもいいなぁ」という具合に次の欲が出てきます。

恥ずかしながら、一つ願いが叶えば、次の願いがすぐに出てくる、という具合でした。初日の出を拝みながら祈った「身体健康」の願いは、いつの間にか「おいしいものを食べたい」という欲にすり替わっていたのです。

そうした中で、ふと、こんなことを思いました。「『身体健康』という願いが叶ったら、その健康な身体をもって何をするのか、そういう視点が自分には欠けていたな」と。身体健康にしても、合格祈願にしても、就職祈願にしても、何のためにそれを願うのか。その願いの先にあるものは何なのか。それを私たちは忘れてしまいがちなのではないか、と思うのです。

  

「老僧之《こ》れより六道輪廻」

私が得度した寺に、大正時代、定山《じょうざん》和尚という方がいらっしゃいました。大本山方広寺の寺務総理(現在の宗務総長)を務め、明治時代に起きた火災からの復興真っただ中の方広寺にあって、庫裡《くり》や書院の再建に力を尽くした人物です。

また、その活動は寺院に関連したものにとどまらず、太平洋戦争後、すぐに地域の子供たちのために保育園を開園したり、国の制度が確立するよりも以前に保護・更生活動を行ったり、さらには育児院の運営をするなど、社会のために一生を捧げた方でした。

その定山和尚は、昭和39年に94歳で遷化《せんげ》(亡くなること)したのですが、その直前に次の遺偈《ゆいげ》(禅僧が弟子や後人のために遺す詩句)を病床で書き上げたそうです。

「末后《まつご》の一句 老僧之《こ》れより 六道輪廻《ろくどうりんね》」

この遺偈について、定山和尚の法弟である足立千仭師(名古屋市・禅隆寺元住職)が、次のように語っておられました。
 

「六道は、地獄・餓鬼・畜生・修羅(常に闘争を事としている人)・人間・天上の六つの世界を言います。人が死ぬと、その人の過去の業《ごう》(行いの事)により、この六つの世界を輪廻するという古いインドの思想があります。

本文の意味は、『私は間もなく死ぬ。これから過去の業因により、六道の世界をめぐりあるく。』ということですが、更に説明すると、いかに修行を積んだ人といえども因果の道理は逃れ難い、私も一般の人と同じように六道の世界に行く。然《しか》し私は地獄に落ちたら地獄の鬼たちを救い、餓鬼道へ行けば餓鬼共を救う。いかなる世界に赴いても、一切衆生を済度すると言う菩薩の誓願は必ず守るという意味が含まれていると思います。」

間もなく死を迎える、そんな病床にあってもなお、定山和尚の「願い」は自らに向けられたものではなく、「苦しみの世界にある人たちを救いたい」という慈悲の心に溢れるものでした。その遺偈を書き上げたのち、定山和尚は安らかな眠りについたといいます。
 

自分のための願い、人のための願い

新年を迎えるにあたり、定山和尚の記録が書かれた『遺芳録《いほうろく》』という冊子を改めて拝読したのですが、「同じ病床にある身でも、そこに思う『願い』はこうも違うものか」と療養中の自らの願いの浅さに大変恥ずかしい思いをいたしました。

「自分のための願い」というものは、叶ってしまえばそこで終わってしまい、また次の願いが出てきてしまいます。こうなると、いつまでたっても心の安らぎは得られません。

もちろん、自分のために願うことは決して悪いことではありません。何事も自分の力だけでは成り立ちませんから、自分の力だけではどうにもならないところは神仏におまかせするしかないのです。

しかし、その願いが自分に向けたものから「自分以外の人のために」と広がりをみせていったならばどうでしょうか。人のために願い、行動を起こし、力を尽くしていく。そこにこそ、真の心の安らぎや、幸福感というものが生まれてくるのではないでしょうか。

新年を迎え、定山和尚の遺偈とその人生を思い起こしながら、気持ちを新たにした次第です。




※この記事は、臨済会発行『法光』令和5年正月号に掲載されたものを加筆修正したものです

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