笑顔の秘密~今・ここに生きる

染川 龍船
2021/6/15

皆さんも、こんな一日を経験された事はありませんか?

辛い経験、悲しい出来事、自分が犯した失敗。そんな過去のことを思い返して、腹が立ったり悔やんだり。過ぎたことばかり何度も思い返して、気持ちが滅入ってしまう。

あるいは「この先自分はどうなるのだろう」と、将来の不安ばかりが頭をよぎって、何をするにも気持ちが入らない。

過ぎたことや先のことばかり考えて過ごしている時、私達は「過去」や「未来」に振り回されて、二度と戻ることのない今日という大切な一日を、大切な「今」というひとときを、無駄にしているのではないでしょうか。


大きな山門や赤レンガの水路閣で有名な、京都の南禅寺。この南禅寺の初代住職である大明国師《だいみんこくし》は、「当処を離れず」《とうしょをはなれず》という教えを残されました。

「当処」とは、いま、ここ。自分が置かれている日常の現実。この瞬間の自分、ということです。

大明国師は「悔やんでも過去は変えられない、いくら考えても未来のことは分からない。だからこそ、今この瞬間を大切に精一杯生きなさい」と説かれたのです。


私が住職するお寺の世話役さん(お寺の行事などのお手伝いをしてくださる檀家さん)に、とても元気なご婦人がおられました。その方は90歳を過ぎても、冬は半袖で掃き掃除。地域の福祉センターに赴いては、同年代の方の食事や身の回りのボランティアをされていました。

ある年の地蔵盆、お手伝いに来られていた世話役さんに尋ねたことがあります。

「いつもニコニコされてらっしゃいますね。元気の秘訣は何ですか?」

すると、こうお答えになりました。

「年寄りの私が暗い顔してたら、若い人達はどう思うのよ。これから先の人生が、楽しいと思えないじゃない。苦しいことは水に流して、忘れてしまったらええのよ。私は今、オシャレするのも食べる事も楽しいの。それだけよ!」

飾り気のない清々しい言葉に、私の心までスーッと晴れ渡るようでした。不安や悩みに自らしがみついて生きるのも、また、それを手放して今を生きるのも、全て自分自身が決めることなのだと、やさしく諭して下さっているような気がしました。

いつも明るく前向きに、人生を楽しんでおられるかのような世話役さん。実は終戦後、早くにご主人を亡くされ、女手ひとつで二人のお子さんを育てられました。それはもう、大変なご苦労をされたそうです。

そのご苦労を周囲の人に微塵も感じさせることなく、いつも素敵な笑顔でいらっしゃる理由が、その時に分かったような気がしました。どんな逆境の中にあっても苦しみにとらわれることなく、自分の不遇を他人と比べることもなく、ご自身の「当処」、今日という一日を、精一杯に生きておられたのです。


私達は「今」を生きています。過去でも、未来でもありません。その「今」でさえ、自分の思い描いた通りに生きることは難しいでしょう。

しかし、だからと言って過ぎたことを持ち越したり、先のことを不安に思うばかりでは、「今」生きることの喜びや美しさに気付く事はできません。

「当初を離れず」とは、辛いことも楽しいことも、ありのままの現実を全て受け容れるということ。そして、他人と比べることなく、自分自身を精一杯に生きるということ。

そんな生き方ができれば、今まで感じることができなかった人生の深い味わいに、きっと気付けるのではないかと思うのです。
 
 
 

  • 大明国師《だいみんこくし》は南禅寺第一世住職。僧名を無関普門《むかんふもん》という。
  • 大本山南禅寺
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