第6の探検 – 扉、その仕組みと変遷(2)

 
皆様、建築の森にようこそ。わたくし、「禅寺建築探検隊」案内係の佐々木でございます。

第6の探検は、私たちが毎日当たり前のように出入りしている「扉」です。前回は、6世紀後半の仏教導入以降の建物の開閉部について探りました。2回目となる今回は、仏教導入以前に時を溯ってみたいと思います。


仏教導入以前の建築開口部

古墳時代の扉

仏教寺院建築の伝来以前、古墳時代の遺物からは、板扉の存在やその開閉の仕組みが枢《くるる》であることを示す建築部材が各地で出土しています。関東、近畿、中国、北九州の各遺跡から、扉や扉の建て付けに必要な数種類の建築部材が出土していたのです。(注2)
 
例えば、出土した板扉の上下には扉の軸となる突起が付いていました。また、扉を受けるために必要な枠の役目を果たす楣《まぐさ》(画像9)と蹴放《けはなし》(画像10)、方立《ほうだて》、辺付《へんづけ》などもありました。
 
楣と蹴放には、扉の突起、ホゾを受けるためのホゾ穴が穿たれていましたので、扉が「枢」のメカニズムで開け閉めされていたことは明らかです。寺院建築の伝来以前から、日本の住居には枢の仕組みによる板扉が使われていた、ということです。

群馬県の中村遺跡から出土した部材をもとに、5世紀後半期の高床式建築を推定した復原図(画像11)を見ると、扉口の構成は寺院建築のそれとほぼ同じであることがわかります。

ただ、松山市朝美辻遺跡から蹴放が出土した際の図版(画像12)からもわかるように、建築部材の遺物は、一つ一つがばらばらの状態で発掘されます。そのため、それぞれがどのような役割を持ち、どのように構成されていたのか、当時の実際の姿を想定することは非常に困難な作業となります。
 
現時点において扉口装置一式が出土した例が一例だけあり、それは大阪府大東市北新町遺跡から発掘された、両開きの扉2枚、扉の上を受ける楣、柱との間を埋める方立、辺付けなどの一式です。古墳時代後期の扉を収める構造を知ることができる貴重な資料です(画像13)。

この画像から、扉は一木からなり、手斧で削りながら閂受け《かんぬきうけ》を作り出していることもわかります。他の遺跡の扉も同じような方法がとられており、広く広まった作り方であったようです。法隆寺金堂の一枚板でできた扉に通ずる製作技術と考えられます。
 
 

家形埴輪の扉

出土した建築部材からの類推方法以外に、古墳から出土する家形埴輪に描かれた戸口の表現からおおよその構造を類推することもできます。

京都の城陽市丸塚古墳から出土した大型の家形埴輪には扉口の様子が精巧に作られています。扉こそ付いていませんが、扉廻りの楣、方立、辺付が表現されており、5世紀前半の扉口の構造が把握できます(画像14)。

 
さらに4世紀末の美園遺跡家形埴輪(画像15)には、扉の下には軸受けの窪みが付き、上には軸を嵌め込むための輪が付いています(画像16)。扉ははずれて出土しなかったものの、明らかに枢の仕組みを用いた扉であることが確定できます。
 

 
以上のことから、扉を入口にはめ込み「枢」のメカニズムで開閉する技術の痕跡は、古墳時代初頭に求めることができました。さらに遡り、弥生時代に見出すことはできるでしょうか。
 

弥生時代の扉

弥生時代の住居遺跡も数多くありますが、弥生後期から末期における静岡県韮山の山木遺跡から扉が出土しています。扉の上下には突起が付き断面が円形になっていることから、回転軸を持つ、枢の仕組みで開閉する扉であった、と言えます(画像17)。
 
また、扉の上の部分には突起がなく、扉に穴が開けられているものも出土しており、このような扉はおそらく柱に縛り付けて扉を開け閉めする、非常に素朴な仕組みで使われていたと考えられます。

 
鳥取県青谷上寺地遺跡からは、弥生中期から後期の扉らしき板材や、楣が出土しています。楣には扉の軸受け用と思われる穴が開いており方立を嵌め込むような溝もついていることから、この時代の扉にも「枢」の仕組みが使われていたことが確認できます。

青谷上寺地遺跡では、弥生前期から中期の出土品も数多くあり、建築部材も発掘されています。その中には扉の閂受けのようなものや、楣も出土しています。ただし、この楣には軸受けの穴がないことから、山木遺跡から出土した扉のように、柱に縛り付けるタイプの形式とも考えられます。

弥生時代の扉に関して、これ以上調べることはできませんでしたが、弥生時代、高床式の建物に枢の仕組みを持つ扉が備えられていたことが確認できました。特に青谷上寺地遺跡は中国、朝鮮半島とのつながりの深い地域であったため、建築技術の交流も十分考えられます。そうした背景の中で扉の構造も次第に整えられていったのではないでしょうか。

縄文時代に関しては、扉の存在は認められませんでした。縄文時代の遺構が残りにくいことを鑑みても、枢の仕組みを含めた扉の工夫には大陸の影響があったことは否めません。

そこで次回は中国での発掘調査をもとに、さらに扉の仕組みの源流を追っていきたいと思います。


 
 
 

「第6の探検 – 扉、その仕組みと変遷(3)」に続く(2022年6月掲載予定)


注2:群馬県・中村遺跡、静岡県・上土遺跡、三重県・納所遺跡・六大A遺跡、大阪府・北新町遺跡、愛媛県・朝美辻遺跡、長崎県・原の辻遺跡などの各遺跡から扉板、楣、蹴放し、などの部材が出土している。

  • 画像9:宮本長二郎 (1996)『日本原始古代の住居建築画像』中央公論美術出版 p36 図16
  • 画像10:松山市教育委員会他(2017)『松山市文化財調査報告書190:宮前川流域の遺跡Ⅲ』図18
  • 画像11:宮本長二郎 (1996)『日本原始古代の住居建築画像』中央公論美術出版 p36 図16
  • 画像12:松山市教育委員会他(2017)『松山市文化財調査報告書190:宮前川流域の遺跡Ⅲ』図15-2      
  • 画像13:大東市北新町遺跡調査会 (1991)『大東市北新町遺跡第2次発掘調査概要報告書』p62
  • 画像14:奈良国立博物館 (2008)“過去の展覧会情報(2008年度)” → ウェブサイト
  • 画像15:(財)八尾市文化財調査研究会(1989)『(財)八尾市文化財調査研究会報告21』p15 写真9
  • 画像16:(財)八尾市文化財調査研究会(1989)『(財)八尾市文化財調査研究会報告21』p16 写真10
  • 画像17:桜町遺跡発掘調査団(2005)『桜町遺跡シンポジウム:考古資料から建築材・建築技術を考える』p55 図38


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