第4の探検-さらに懸魚の源流を探る(2)

 
皆様、建築の森にようこそ。「禅寺建築探検隊」案内係の佐々木でございます。
第4の探検は、さらに時間をさかのぼって隋代へ。いよいよ、旅の終わりが近付いてきました。
それでは後編のスタートです。


隋代の懸魚

莫高窟には隋代(581 – 618)に描かれた壁画も残っており、懸魚のある建物も描かれています(画像9)

入母屋屋根で、鴟尾《しび》が載り、軒の垂木は二段重ね。組物と人字形割束で軒の桁を支え、御簾《みす》が巻かれているところまで書き込まれています。これらのことから、この図は高い階級の建物を表しており、このような建物に懸魚が取り付けられていたことがわかります。
 

 
画像10の墓は、西域出身で北周(556 – 581)から隋の官僚となったソグド人、虞弘とその家族のためのものですが、石室は家型になっています。

画像11の見取図からは、入母屋造《いりもやづくり》の屋根の破風部分に小さい懸魚が付いていることがわかり、隋時代における懸魚の存在が確認できます。
 

魏晋南北朝時代の懸魚

画像12画像13はともに西安市で発掘された北周時代、ソグド人の石室とレリーフです。

史君墓(画像12)の石室は、まるで木造建築の家形模型のように彫られています。柱には組物が載り人字形割束と共に軒桁を支える構造がよくわかります。屋根は入母屋造で、瓦で葺かれたような表現がなされ、破風には懸魚が刻まれています。

また、ソグド人安伽の墓(画像13)のレリーフには当時の邸宅が刻まれていますが、その入母屋造の破風にも懸魚が見えます。北周の建築にも懸魚が用いられていたことが確認できました。
 

 
さらに南北朝時代、北魏(386 ‐ 534)へと歩みを進めます。

画像14は、北魏後期に描かれた麦積山石窟寺院の壁画です。画像15は同壁画の傳熹年氏による描き起こし図ですが、そこには入母屋造の屋根の破風に懸魚が描かれているのがわかります。屋根には鴟尾が載り、また破風には扠首(又手)《さす》が描かれ、棟桁を支える古式の構造が見て取れます。
 

 
画像16は、洛陽で出土した北魏代(529)の寧懋石室です。隋や北周時代と同様石室は家型で、木造建築を表現しています。屋根は切妻造《きりづまづくり》で、本瓦葺きの形式を取り、円形垂木で軒を支えます。石造りですが、屋根の両端を破風板で押さえるなど、非常にリアルに表現されています。妻側の破風には扠首が描かれ、そこには懸魚の図が線刻されています。
 


 
以上、家形の石室は木造の住宅建築を詳細に表していることから、当時の住宅には懸魚が存在していたと考えられます。また麦積山石窟寺院の壁画の懸魚が北魏後期に描かれたものであることも合わせて、北魏後期に懸魚は存在していた、と言えます。
 

南北朝時代以前の懸魚

北魏よりもさらに遡って古い資料を見ていくと、そこにはもう懸魚は現れなくなります。石窟寺院の壁画資料に関しても、敦煌莫高窟、麦積山石窟からは北魏より以前の情報は出てきませんでした。

また、雲崗、龍門石窟はじめ、炳霊寺石窟、鞏県石窟寺、隴東石窟には懸魚に関する壁画はなく、範囲を広げてクムトラ石窟やキジル石窟を調べてもありませんでした。明器に関しても懸魚は全く出てきません。後漢には陶製の家形明器が大量に出土されていますが、それには懸魚は付いていません。

その一番の原因は屋根の形にありそうです。懸魚を付ける場所は、入母屋屋根か、切妻屋根の破風ですが、画像17のように寄棟造《よせむねづくり》の屋根の場合は懸魚を付ける余地はありません。
 

建築構造の複雑化により懸魚が発達

明器のほとんどは寄棟造でできています。切妻屋根を持つ建物もありますが、それらは厠や猪小屋などであり、懸魚を取り付ける種類の家屋ではありません。

つまり、北魏以前の屋根は構造が単純な切妻造か、寄棟造だったものが、北魏以降、複雑な構造の入母屋造を手掛けるようになった、ということになります。

考えられる理由として、北魏以降、建築構造の発達により、屋根を支える構造が複雑化したことが挙げられます。そのころ開かれた雲崗、龍門などの石窟寺院の壁画に複雑な組物を持つ寺院建築が描かれていることからも発達の過程が伺えます。

発達を促した理由の一つに仏教の興隆が挙げられます。『洛陽伽藍記』に見られるように、北魏時代、洛陽にはおびただしい数の寺院が続々と建立され、その数1,367寺と記されています。

建立の積み重ねの中で技術の伝達、指導の充実、組織のまとまりなど技術革新への下地が出来上がり、ついには、伽藍記に従えば、100メートルを超える高さの仏塔を建立するまでになったのです。こうした状況のもと、邸宅の屋根は入母屋造となり、華やかさを備える懸魚が求められていった、と考えられます。
 

まとめ

以上、懸魚は北魏の時代から、入母屋造の発達に伴い現れ、建物に華やかさと格式をもたらす役割を果たす部材として種々の建築物に用いられていった、としてこの探検の結論にしたいと思います。


懸魚の源流を探る旅も、これでようやく終わりを迎えられそうです。
 


  • 画像9:徐光冀(総監修)古田真一(監修・訳)『中国出土壁画全集4』(科学出版社東京2012)P43, 図31
  • 画像10:太原市文物考古研究所「太原隋代虞弘墓清理簡報」(『文物』第1期 2001)P29
  • 画像11:太原市文物考古研究所「太原隋代虞弘墓清理簡報」(『文物』第1期 2001)P29
  • 画像12:西安市文物保護考古所画像「西安北周凉簡州薩保史君墓発掘簡報」(『文物』第3期 2005)P22, 図42
  • 画像13:敦煌研究院麦積山石窟芸術研究所考古研究室「麦積山石窟第4窟散花楼外檐下仿木構件再勘察」(『文物』第11期 2017)P70, 図13
  • 画像14:天水麦積山石窟芸術研究所編『中国石窟麦積山石窟』(出版平凡社 1987)画像14 
  • 画像15:傳熹年「麦積山石窟に見られる古建築」(天水麦積山石窟芸術研究所編『中国石窟麦積山石窟』出版平凡社 1987)P249
  • 画像16:馮継仁「中国古代木構建築的考古学断代」(『文物』第10期 1995)P49, 図9
  • 画像17:天津市文物管理処考古隊「武清東漢鮮于璜墓」(『考古学報』第3期 1982)図版拾捌1


 
 

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