南嶽懐譲 – 禅の名僧(3)

山田 真隆
2021/5/8

南嶽懐譲(なんがくえじょう/677~744)

南嶽懐譲禅師(以下、南嶽)は、六祖から法を嗣がれた方です。現在日本に伝わっている禅宗三宗のうち、臨済宗と黄檗宗がこの南嶽禅師の法系から成立しました。しかしこの南嶽、実は何かと謎の多い人物で、実在したかも不明です。

唐突ですが、皆さんは「お前さんは何者で、何をしにこの世に来たか?」と聞かれたら、どう答えるでしょうか。
これは南嶽が六祖大師の元に参じた時、出された質問です。

日常会話として答えるとすれば、例えば私なら「山田というもので、寺の副住職をしております」と答えればいいのです。

ですが、ここではそんなことを聞いているのではなく、言い換えれば、「あなたの仏心仏性は、どういう名前で、どういうはたらきをするのか?」という質問です。

禅の世界で、この質問が出て来たなら、人間が、経験や知識を得て分別するようになる以前の、本来の心のあり方を、問題にして尋ねているのですから、答え方も、経験や知識以前の方法を取らなければ答えになりません。この質問の答えには南嶽も苦しみました。


南嶽は、姓は杜氏、現在の山東省の金州の出身、幼時より聡明で、他人と違い、競うこともなく、仏法に親しみ、十五歳の時、湖北省荊州の玉泉寺に赴いて弘景律師について出家、律蔵の仏教学を学び、その後、坦然《たんねん》禅師という僧と共に、河南省嵩山《すうざん》の慧安《えあん》和尚の元に行って禅に触れ、遂に、六祖大師の処に赴いて、先述の問答が行われることになります。その時の問答のやりとりは次の通りです。
 

師乃ち曹渓に往き、而して六祖に依れり。六祖問う、「子《なんじ》は近ごろ何方《いづかた》を離れしや」。対《こた》えて曰く、「嵩山を離る。特に来たりて和尚を礼拝す」。祖曰く、※「什麼物《なにもの》が与麼《よも》に来たる」。対えて曰く、「一物《いちもつ》を説似せば即ち中《あた》らず」。

(『祖堂集』巻三、※『伝燈録』南嶽懐譲章には「什麼物が恁麼《いんも》に来たる」とある。)

六祖大師の「什麼物が与麼に来たる」の問いに対して、南嶽は八年の修行の後、「一物を説似せば即ち中らず」と答えたといいます。

「一物を説似せば即ち中らず」とは、一言でも説明したら的はずれだ、という意味です。なぜかというと、人間が本から具えていた訳ではなく、誕生して生活するうちに後から具わったものである経験や知識以前の問題なのに、一言でも文字を使うということは、経験・知識の中にとらわれてしまうことになるからです。

哲学者の西田幾多郎博士は、
 

「この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。」

(西田幾多郎『善の研究』)

と、人間が生まれながらに本来持っている心のはたらき「純粋経験」と指摘しています。

西田博士の指摘を参考にしてみると、たとえば花を見るとして、私たちは、その花が経験や知識から、何という名前の花で、どういう色で、何時咲いて、ということを考えてしまいます。しかし、その花の名前も色も生態も、全部人間が名づけたものです。

そういう知識を通して、経験を通して、ではなく、知識を通さず、経験を通さず、人間の本来の心のあり方を問題にした「什麼物が与麼に来たる」を表現するとなると、文字では表現出来ない、ということになります。そこを南嶽は、誰の先人の言葉も借りず、自分の言葉で、「一物を説似せば即ち中らず」と答えたのです。

南嶽は、さらにここから七年修行し、六祖大師に参禅すること、通算十五年にして法を嗣いだのでした。そして唐の先天二年(開元元年・712)に南嶽は、衡山の般若寺に住します。衡山とは、衡山山脈の主峰で中国五岳の一つであり、最高峰の祝融峰《しゅくゆうほう》は海抜1290メートルの高さです。隋の文帝以来南嶽ともいいます。本稿の南嶽懐譲の名もこの地に住したことに因ります。

南嶽が住した般若寺(現・福厳寺)は南朝の陳の光大元年(567)、南嶽慧思(なんがくえし・515~577)の創建です。慧思和尚は天台宗の開祖智顗大師(ちぎ・539~598)の師で、予州(安徽省)武津の人。姓は李氏。般若寺に七年住して示寂しました。


この衡山には、私は2009年2月に訪れました。湖南省の長沙市から、150~60キロ南下すると、衡山市という町があり、その郊外に衡山はあります。

朝七時半に衡山市内のホテルを出発、20分ほどで衡山の入口に着きました。この麓の山道入口からは徒歩か、乗り合いのマイクロバスでの移動です。天候はあいにく雨、気温も上がらない中、私たちはほとんど徒歩で移動しました。雨のため、見晴らしは良くないですが、霧がかかり、いかにも深山幽谷、古来よりの霊場の体をなしていました。日本で言えば比叡山や高野山に近いでしょうか。

40分ぐらい歩いて、ようやく南嶽の住した福厳寺(かつての般若寺)に到着します。さらに遺跡として南嶽慧思和尚の三生塔、近年になって建てられた金剛舎利塔、石頭希遷禅師ゆかりの南台寺を参観して、伝法院に至ります。


開元年中に、この伝法院で馬祖道一禅師が南嶽に参じています。
南嶽は馬祖禅師を一目見て法器と見抜き、接します。
この時のやりとりは「南嶽磨塼《なんがくません》」(『宗門葛藤集』)という話として伝わっています。

南嶽が馬祖禅師の坐禅する姿を見て、言います。

南嶽禅師「大徳、坐禅して何を図っておるかな」
馬祖禅師「仏になろうと思います」

すると南嶽は側にあった塼(レンガのようなもの)を手にして磨き始めました。

馬祖禅師「塼を磨いてどうするんですか。塼を磨いても鏡にはならないでしょう」
南嶽禅師「磨いて鏡にしようと思う。塼を磨いて鏡にならなければ、坐禅しても仏にはなれまい」
馬祖禅師「ではどうすればよいのでしょうか」
南嶽禅師「もし人が牛車に乗って、牛車が動かなかったら、車を鞭で打つのが正しいか、牛を打つのが正しいか」

南嶽禅師は聞き返しましたが、馬祖禅師は答えることはありませんでした。
南嶽は、さらに導くために示します。

「きみは坐禅を学んでいるのか、それとも坐仏を学んでいるのか。もし坐禅を学んでいるならば、坐禅はただ坐したり臥したりすることではない。禅のはたらきを養うのが坐禅である。もし坐仏を学んでいるなら、仏とは定まった相はなく、移ろいゆく流動的なものだ、固定的な相は無い。心は一定して住まることはない。心もすべて流動して、一時も住まらない、これを無住の法という。だから取捨してはならない、流動して捕まえられない現象にとりついてどうするのか。汝が、坐禅して仏になろうとすれば、もう仏にとりついてしまい、仏心のはたらきを殺すことになる。もし坐相に執着したら、禅の理に達せずに終わってしまう」と。

馬祖禅師はこの示晦を聞いて、まさに醍醐を飲んだようであったといいます。

人間の本体は心であることを、六祖大師との「什麼物《なにもの》が与麼《よも》に来たる」「一物を説似せば即ち中らず」の問答で徹底した南嶽は、体を車、心を牛に巧みに喩えて、馬祖禅師を導いています。


牛を叩かなければ車は動かない、根本である心を動かさないと体は動かないのです。逆に体が動かないということは心が動いていない、立ち居振る舞い・言動が乱れている人は、心も乱れているということになります。現代人が抱える多くの問題も、この点を考え直すことで、解決することが多々あると思います。まず心をざわつかせず、調えることが諸々の問題解決の第一歩です。

また坐禅は、自己の本心とは、定まったものではなく住まらない無住の法であることを、体感するための方法です。定まらないから、一物とも説明出来ない。それを仏と定めてしまっては、折角何にも引っかからず、さらさらと流れている心を堰き止めてしまう。それは心の本来のはたらきを殺すことに他ならないのです。

この問答のあった場所は、伝法院内に、「磨鏡台《まきょうだい》」として残っています。

南嶽懐譲→馬祖道一の法系は、青原行思《せいげんぎょうし》禅師下の法系と並んで、中国禅宗の主流となりました。これ以来、南嶽は衡山に30年余り住し、玄宗天宝三年(744)に示寂します。世寿六十八。大慧禅師と諡号されました。

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