生への執著を失った人は「悟った人」?
皆様、ごきげんよう。仏教学者の佐々木閑です。この連載では、皆様からの質問に私がお答えします。仏教やお釈迦様に関する質問だけでなく、思いついたこと、なんでもいろいろ聞いて下さい。全部お答えすることはできませんが、面白い質問や大切な質問を取り上げて、できるだけ分かりやすくお答えします。
ただし、禅については禅宗のお坊さんに聞いて下さいね。
Question :
先日私の父が闘病の末亡くなりました。入院当初は生きる事に執着しておりましたが、臨終間近になると「生きたい」という執着も無くしていました。全ての執着を無くした父は「悟った」といっても宜しいのでしょうか。
(ペンネーム「Max」さんの質問)
Answer :
お釈迦様の教えに従って修行し、自分の力で生きる苦しみを消すことができた人を「悟った人」と呼びます。お父様は「悟った」のではありませんが、死へと向かう中で次第に生への欲求を離れ、穏やかに最期を迎えられたのだと思います。ですから「悟った人と同じ境地になった」と言えるでしょう。
私たちは生物ですから、この世に生を受けた瞬間から「生きよう」という強い欲求を持っています。
胎児や赤ちゃんの時は、まだ自我が発達していないため、外界からの刺激に対して自動的に反応するかたちで「生きよう」とします。生まれ落ちてすぐ、お母さんのおっぱいに吸い付こうとする赤ちゃんの、あの姿です。
「私は、生きるためには、この人のおっぱいに吸い付かねばならない。他のことなどやっている余裕はないのである。ではちょっと失礼します」などと言っておっぱいを吸う赤ちゃんはいません。反射的本能でお母さんにくっついていくのです。
しかし、やがて成長するにつれて人間は強い自我を持つようになり、「生きようとしている自分」「生き続けなければならない自分」というものを客観的に見るようになります。
ただ単に、外界からの刺激に反応して生きるのではなく、「私とは何者なのだろうか」とか「なぜ私は生きねばならないのか」とか「生きていることは辛いことだ」などなど、自分自身の姿を自分で見つめ、考える存在になるのです。
この段階に至って、人間にはそれぞれに「生き方の個性」が出てきます。
人によっては、生きることに何の苦労も感じず、「生きることは素晴らしいことだ。こうやっていつまでも生きていくことが幸せなのだ」と考えます。社会の大方の人たち、特に若い人たちはそう考えるでしょう。それはそれで全く自然で文句のつけようのない考え方です。
でも、中には「生きることがつらくてつらくて、なんとかこの苦しみを消したい」と悩む人も大勢います。元々そういった感性を持った人もいるでしょうし、災難、災害にあって癒やされぬ苦しみを体験した人もそうなる場合が多いのです。
そんな、「生きることは苦しいことだ」と自覚し、苦しんでいる人を救うために、お釈迦様は仏教という宗教をお作りになりました。そしてその仏教の教えに従って修行し、最終的にすべての苦しみを消すことのできた人を「悟った人」と呼びます。
ですから「悟った人」というのは、決して特別に立派な人でも、すぐれた人でもありません。ただ単に、自分の力で、生きる苦しみを消すことのできた人を「悟った人」と呼ぶのです。
皆が悟った人を尊敬するのは、その人の体験談が役に立つからです。自分はどうやって苦しみを消すことができたかという、その体験談、つまりお説法が、生きる苦しみを消したいと願う人にとっての大切な指針になるという点で、悟った人は皆からあがめられるのです。
さて、ご質問のお父様ですが、重病にかかって闘病なさっておられる間に、次第に「生きたい」という執著をなくされたというのですから、おそらく最期は、心穏やかに亡くなっていかれたのでしょう。
これを「悟った」と言えるのか、というご質問ですが、お父様は釈迦の教えに心を向けられたわけでもなく、仏道修行の志を立てられたのでもありませんから、悟ってはおられません。しかしそれは、お父様が、仏教で悟った人ほどには偉くない、という意味ではありません。
何度も言いますが、悟った人は悟っていない人よりも優れているとか偉いとかいう考えは間違いです。悟った人は悟っていない人より「生きる苦しみが少ない」というだけなのです。
ですから、お父様は悟ってはいないのですが、死へと向かう闘病生活の中で、次第に生への欲求を離れ、穏やかに最期を迎えられたという点で、「悟った人と同じ境地になった」と言うことができます。
健康な人ならば、厳しい修行によってようやく達することのできる境地ですが、重病という機縁に出会ったことで、お父様は同じその境地に達することができたということになります。
否応なく生きる苦しみを背負った私たち人間にとって本当に重要なのは、悟ることではなく、老・病・死の苦しみがなくなることなのです。