文房四宝の詳細~その2 墨編

野田 芳樹
2022/2/22

1.固形墨と墨汁、どう使い分けるの?

墨は固形のタイプのものと、売られている段階ですりおろしてある墨汁タイプのものに大別されます。皆さまの中に、こんなことを思っている方はいらっしゃいませんか?

書道をやるからには、毎回固形の墨を磨った方がいいのだろうか?それとも墨汁でいいのだろうか…?

今から書を始める人にとっては、固形墨と墨汁をどういう判断基準で選択してよいのか分からないかもしれません。


私は、初心者の方には「初めのうちは墨汁。慣れてきたら固形墨も使ってみる。」というやり方が穏当だと思っています。固形墨と墨汁には、形状のほか防腐剤や塩化カルシウム(安定剤)の有無など違いは様々ありますが、一番大きな差は「磨る時間がかかるか否か」でしょう。

私が書道を学び始めた頃、師匠からは「今はとにかく筆をとって一枚でも多く書くことが第一。墨を磨るのも大事だけれど、初学のうちはその時間を書くことに使った方がいい」と助言を受けました。「書道をやるときは必ず墨を磨らないといけないのかな?」と思っていた私にとっては、少々驚きのアドバイスでした。今振り返るとその意見には一理あり、毎回墨を磨るというプロセスを経ていたらその分技術の上達が遅くなって伸び悩み、書そのものに取り組む意欲が減退していたかもしれません。

磨る時間を書く時間に充て、技術を向上させることでモチベーションを保つ。その意味でも初めは墨汁でよいと思います。


しかし技術が徐々に身につき、自分の作品をつくったり展覧会に出品するようになると、こんな願望がむくむく湧いてきます。

自分の作風に合った墨を自分の手で磨って、作品の風格をもう一段押し上げたい…!

固形墨の良いところは、数多の種類があり、さらに自分の磨り方や薄め方によって多種多様な表現ができるところ。自分自身の技術に墨の風合いの変化が上乗せされれば、表現の幅がいっそう広がります。現在、私自身も、自分の書に合う固形墨を色々と模索している最中です。理想の固形墨に出会うプロセスも、書の楽しみ方の一つだと感じています。

以上、私自身のこれまでの気持ちの変化を振り返りつつ、墨汁と固形墨のそれぞれの利点についてお伝えしましたが、墨を扱うことには文房具としての機能面だけでなく、私たちの精神面によい作用をもたらす側面もあります。それは後ほどお伝えするとして、まずはどんな墨があるのか?具体的な品を以下にみていきましょう。


2.おすすめの墨五選

文房四宝の詳細~その1 筆編」で「筆は多種多様で、どのような筆を選べばよいのかは迷いどころ」と書きましたが、墨はさらに選択が難しいかもしれません。なぜなら、筆は書けばある程度感触が分かり、自分に適しているか否かが判断しやすい一方で、墨はよほど目が肥えていないかぎりパッと見たときの差が分かりにくいからです。

その解決方法は、筆と同じく、とにかく色々試してみて、自分の中で判断軸を養うことしかないでしょう。参考までに、私がこれまで使ってきた中で特に「良いなぁ」と感じたものを以下に五種類紹介します。(墨汁:二種、固形墨:三種)

*値段はすべて各社公式サイト内の情報。書道具屋さんに行けば記載の値段より低価格で手に入る場合があります。
*私はかなは専門外なため、「漢字もしくは近代詩文書(調和体)を書く場合におすすめ」という観点で選んでいます。


【墨汁編】

(1)玲瓏《れいろう》

・制作元:開明《かいめい》(埼玉)
・価格:1,200円(税抜)/400ml
・製品ページ:http://www.kaimei1898.com/detail/item_su3030.html


【特徴】
私が使用してきた中で、とにかくコストパフォーマンスが高いと感じる墨汁。値段がそこまで高くないにもかかわらず、とても強い黒色が表現でき、立体感のある作品に仕上がります。私は主に漢字の作品を書く時に使用していますが、水を加えて少し薄めれば、近代詩文書のような柔らかみが必要な作品を書く際も実力を発揮してくれます。

▼使用感

約3mlの「玲瓏」を約5mlの水道水で希釈して使用

(2) 皇壽《こうじゅ》

・制作元:開明《かいめい》(埼玉)

・価格:6,800円(税抜)/500ml
・製品ページ:http://www.kaimei1898.com/detail/item_su2144.html


【特徴】

濃墨ながら筆がひっかかる感じが少なく、なめらかに運筆できます。紙の上に広がる墨の「伸び」も豊かで、作品の幅が広がる一品。少々お値段ははりますが、展覧会などに出品する作品をつくるならばこれくらいの高級品を使ってもよいと思います。私は主に近代詩文書を書くときにこの墨を薄めて使います。

▼使用感

約3mlの「皇壽」を約5mlの水道水で希釈して使用

【固形墨編】

(3) 光輝《こうき》

・墨の種類:菜種油の油煙墨
・制作元:錦光園《きんこうえん》(奈良)
・価格:3,000円(税抜)/三丁型(約45g)
・製品ページ:https://kinkoen.shop/?pid=124018266


【特徴】
力強い黒色と優しい風合いとを兼ね備えた、バランスの良い逸品。やわらかな墨色なため、近代詩文書(調和体)を書く場合に特におすすめです。また四方に菊の絵柄と金箔が施され、見た目の美しさも特徴。固形墨には実用性以外に、愛玩用として「見て楽しむ」用途もあるので、その点でも魅力的な墨です。

▼使用感

約5mlの水道水で10分研磨して使用

(4) 良寛《りょうかん》

・墨の種類:菜種油の油煙墨
・制作元:祥碩堂《しょうせきどう》(奈良)
・価格:5,500円(税抜)/三丁型(約45g)
・製品ページ:https://www.shosekido.co.jp/syodou/syodou_kokei_ryo.html

【特徴】
私が一番好きな点は、とても深みのある黒色が表現できるところ。特に漢字の作品をつくる際に重宝します。少数の漢字を書けば重厚感ある作に仕上がりますし、行書のような流れる文字を書けば鋭く冴えた線が表現できます。祥碩堂さんにお訊きしたところ、香料に龍脳《りゅうのう》(フタバガキ科の樹木「龍脳樹」から採れる香料)がふんだんに使われているそうで、とても良い香りがするのも大きな特徴。

▼使用感

約5mlの水道水で10分研磨して使用

5) 神品《しんぴん》

・墨の種類:鉱物油の油煙墨
・制作元:進誠堂《しんせいどう》(三重)
・価格:2,000円(税抜)/一丁型(約15g)

・製品ページ:http://www.suzukazumi.co.jp/product.html(「神品」はサイトに記載されていませんが販売中です)

【特徴】
「写経用」と銘打って販売されている少し変わった墨。進誠堂さんにお聞きしたところ、最大の特徴は原料である煤《すす》の粒子が細かく、磨ったときにつやが出やすいように作られている点とのこと。確かに使ってみると、とてもはっきりした黒線が引けます。写経用とありますが、書作用に使っても問題ありません。手紙など細かい字を書くときにも重宝します。

▼使用感

約5mlの水道水で10分研磨して使用

この他にも数えきれないほど多くの墨があります。色々試し、自分の作風に合った墨を見つけだすことも書の楽しみ方の一つ。

上記の情報をご参考に、よき墨に出会えることを祈っています。
(おすすめの墨が見つかったら、「お問い合わせフォーム」からおしえてくださいね!)


3.墨を磨るのは「ムダな時間」?

墨を磨ろうと思うとそれなりに時間がかかります。正直に告白しますと、私は少し前まで墨を磨る時間はもったいないと思っていました。「磨っている時間を稽古にあてた方が上達スピードは上がるだろう」と。もちろん、これはこれで一つの意見として受け入れてくださる方も多いかと思います。(先ほど1.で書いた通り、先生もはじめこれに類する助言をくださったように)

しかしこの記事を書くにあたり、改めて色々な墨を長い時間かけて磨ってみました。そこで強く思ったことは、「墨を磨る時間は決してムダではなく、むしろ書や自分自身に向きあう大切な時間ではないか」ということです。


墨を磨っている間、何をするかは書家によって十人十色。ある方は、「墨を磨っている時間は手持ち無沙汰なので、展覧会の作品集をながめたり書に関する書籍を読んだりして過ごしている」と言っていました。

また別の書家さんは、「墨を磨っている間に今から書こうとするものに思いをはせ、『どういう構成にしようか』『どんな書体・字形で書こうか』など、作品をどう仕上げるかイメージを膨らませている」とおっしゃっていました。

どちらも書に向きあうために時間を有効活用しており、「墨を磨る時間にそんな使い方があったか!」と膝を打ちました。

私自身が墨を磨る際によく感じるのは、「墨磨りをしていると心が落ち着く」ということです。先ほど2.で紹介した「光輝」という墨を作っていらっしゃる職人さん(*1)に墨の効用についてお伺いした際、とても興味深いことを教えてくださいました。

墨には大きく三つの役割があります。
一つは言わずもがな、文字を書くための媒介になること。二つ目は、香料を練り込むことで含まれる香りで書く前の気持ちをリラックスさせること。三つ目は、意匠の美しさで目を楽しませること。この三つが一般的に言われる墨の効用ですね。


でも、これ以外にももう一つ大きな役目があると思っています。それは「墨を磨る」という行為が瞑想的な意味合いを持っている、ということです。昔から筆をとる人たちは、墨を磨ることを通じて知らぬ間に瞑想を体験し、書き始める前に心を調えていたのではないかと思うのですよ。

墨磨りが瞑想的な役割を帯びている、という指摘に大いに納得しました。墨を磨るという行為には、自分自身と向きあい直し、精神を調える役割が内包されているのです。

初めの頃の私のように「無駄を省いて効率を求めよう」とばかり考え墨を磨らなくなると、瞑想的な要素が抜け落ち、「精神を調える」という書の要が欠けてしまう弊害があるかもしれない――この記事を書くために墨職人さんや書家さんにお話を聞いたり、実際に改めて自分で墨を磨ったりする中で強く反省しました。

墨汁を用いたり、墨を磨ったりとやり方はいろいろあると思います。しかし、墨を磨ることも忘れてはいけない大事な書道の一要素だということです。たまにはゆったり墨を磨り、いっそう豊かに自分自身を調える時間をもちたいものですね。


(*1)錦光園七代目 墨匠 長野睦《ながのあつし》氏
(ブログ:https://kinkoen.jp/info/

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