「ガラス」と悟り

山田 真隆
2021/10/1

非晶質《ひしょうしつ》というものをご存じだろうか?

『広辞苑』には「結晶質でないもの。物質を構成する原子の配列に規則性のないものをいう。」とある。こう言われても、私のような文系人間には、イマイチピンとこないが、要するに固体と液体の特徴を兼ね備えているようなものということではないかと思う。非晶質のものは色々あるが、私たちの一番身近にあるものとすれば、やはりガラスということになるだろう。
 

ガラスが

すきとほるのは

それはガラスの性質であって

ガラスの働きではないが

性質がそのまま働きに成つてゐるのは

素晴らしいことだ 

高見順「ガラス」

窓に嵌められたガラスから外の景色を見ることが出来るのは、ガラスがすきとおっているからに他ならない。そのすきとおる性質は、非晶質という固体であっても結晶化せずに、物質同士の結びつきの弱い液体のような状態であることに因む。詩で言っているように、そのすきとおる性質を私たちは利用して、窓などにガラスを働かせることで、建物の中からでも外の様子を、あるいはその逆も、ガラスを通じて見ることが出来るのである。

つまり、ガラスというものは、一切化学変化せずとも、ガラスというそのままで、固体なのに液体であり、ゆえにすきとおる性質がそのまま働きとなるという、いろんな要素をガラスという単体で同時に持っているものなのである。
詩にもあるように、それは素晴らしいことである。


臨済宗で日常よく読まれている白隠禅師の『坐禅和讃』には

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

という冒頭の一節がある。仏と凡夫の関係を、水の性質に譬えて詠っている。水でさえ固体として氷になれば、ガラスのようにすきとおってはいられない。水の時はすきとおっているが、氷になれば結晶化して濁る。水は非晶質ではないからだ。

人間には生まれながらに仏心が具わってはいるが、水を使って説明すると、氷を解かして水にするように、凡夫として生きている自分を仏にしていくということになる。この説明ではどうしても水である時、氷である時、と段階的にならざるを得ない。

こう考えていくと、段階的ではなく悟りに到達する頓悟禅を表現するには、明らかに水よりもガラスのほうが合っているのでは、となってくる。私のような未熟者が拝察するに、白隠禅師も苦肉の表現だったのかもしれない。でも入門編として、あえてわかりやすく段階的な悟りの到達の比喩として言ったことかもしれないという可能性も否定できない。

ひょっとしたら白隠禅師の生きた時代、ガラスのことをビードロとかギアマンとか言っていた時代に、非晶質というガラスの性質がもし判明していれば、『坐禅和讃』の冒頭の水と氷の譬えは、ガラスになっていたかもしれないと考えてもみるのである。

  

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