第3の探検 – 懸魚の源流を探る

 
皆様、建築の森にようこそ。わたくし、「禅寺建築探検隊」案内係の佐々木でございます。

第3の探検は、時代を遡りながら「懸魚《げぎょ》」の源を訪ねたいと思います。
それでは、さっそく時間の森の探検へと出発です。


今回のテーマ:懸魚はいつから、どのような形で使われるようになったのか?

まず、今回の目的である「懸魚《げぎょ》」についてご説明しましょう。

懸魚は寺院建築の屋根に取り付けられている部材です。下の写真は、建仁寺法堂の大屋根側面・妻《つま》を撮ったものですが、破風《はふ》板が三角形に合わさった部分から垂れ下がる大きな飾りの板、それが懸魚です(画像1)
 

画像1:建仁寺法堂 明和2年(1765) 三ツ花懸魚

 
懸魚は妻側三角の部分・破風《はふ》を飾るとともに、「魚を懸ける」という言葉から水が連想できるため、火災から建物を守る「お守り」の役目も果たしています。
 
画像1の懸魚は「三ッ花《みつばな》懸魚」と呼ばれるもので、よく見ると、同じようなデザインのものが3つ付いています。

そのうちの一つだけを用いたものは「鏑《かぶら》懸魚(蕪懸魚)」(画像2)といって、鏑矢あるいは蕪に見立てた名前となっています。どちらも主に禅宗寺院の建築に見られるデザインです。

また、懸魚には猪目《いのめ》と呼ばれるハート型を繰り抜いた「猪目懸魚」(画像3)や、装飾のないシンプルな「梅鉢懸魚」(画像4)、その他様々な種類があります。
 

当時の形を探ることの難しさ

懸魚は、いつから、どのような形で使われるようになったのでしょう。源流を探るために、まず、確実に当時の姿のままで現存している懸魚を探さなくてはなりません。

そこで、古式と言われる東寺の懸魚を見てみることにしました。東寺の諸門のうち蓮花門は最古の門で、鎌倉初期に建立された建物です。そのため懸魚も建立当初のものか、興味深いところです。

ところが、蓮花門の懸魚は失われて久しく、当初の形は不明だったため、蓮花門とほぼ同時期に建てられた慶賀門の懸魚を参考にし、推定復元されたものでした。つまり、蓮花門の懸魚は建立された当時のものではなかったのです。そうであれば、慶賀門の懸魚こそが建立当時のもの、ということになります。

 
しかし、慶賀門の解体修理で新たな事実が明らかになりました。慶賀門の懸魚は、実は建立当初の鎌倉初期のものではなく、400年も後の慶長期の修理時に取り替えられたものだったようです。

ただし、取り替えた時の懸魚は慶賀門建立当初の姿を踏襲した可能性が高いということなので、一応鎌倉初期の懸魚は「魚の尾」のような形であった(画像5、画像6)と推定されました。

ただ、この形に関して別の見方もあるのです。魚の尾のように見える慶賀門の懸魚は、本来は猪目懸魚だった下の部分がとれて「尾ひれ」の形が残った、という見解です。

そうなると、鎌倉初期の懸魚は魚の形ではなく、「♡」型が彫られた猪目懸魚の系統だったことになり、随分と異なる様相として捉える必要が出てきます。

このように、古い建物に必ずしも古い懸魚があるとは限らないのです。雨風の影響を直接受ける懸魚は傷みが早く交換されやすいため、当初のものを求めることは古い建物ほど困難であることがお分かりいただけたでしょうか?

さて、前置きが長くなりましたが、ここからが探検のスタートです。各種類の懸魚がいつの時代から使われるようになったのか、見ていくことにします。
 

三ッ花懸魚・鏑懸魚(鎌倉時代)

まず、禅宗寺院に多く見られる三ッ花懸魚や鏑懸魚ですが、これらは禅宗が日本に伝わった鎌倉以降に現れました。禅宗寺院は中国の建築様式を用いるようになったのですが、その様式では三ッ花懸魚や鏑懸魚を用いたのです。

当時の中国の建築様式については、北宋時代の建築技術を編纂した『営造法式』という、詳細な建築書で知ることができ、その本には三ッ花懸魚と同じデザインのものが描かれています(画像7)

三ッ花懸魚や鏑懸魚は、中国の建築様式を取り入れた鎌倉時代中期以降、日本の禅宗寺院で用いられるようになったのですから、これらの懸魚が鎌倉時代以降使われていたことは確かです。
 

梅鉢懸魚〜現存最古の懸魚(鎌倉時代

それでは、猪目懸魚や梅鉢懸魚はどうだったのでしょう。調べていくと、猪目も梅鉢も鎌倉時代のものがありました。そして現在判明している現存する最古の懸魚が、梅鉢懸魚であることがわかりました。

長野県 釈尊寺 観音堂宮殿《くうでん》の厨子に残る小さな懸魚ですが、棟札から鎌倉時代中期の造立であることが確認できます(画像8)。棟札には正嘉2年(1258)の「正月二十日」と、日付まで記されています。
東福寺六波羅門の梅鉢懸魚(画像9)と並べてみると、全体の丈の短さが似ていて、鎌倉時代の特徴を知ることができます。
 

猪目懸魚(鎌倉時代)

一方、猪目懸魚は確実ではありませんが、候補として鎌倉時代中期に増設された当麻寺の閼伽棚(あかだな)の懸魚を挙げておきます。懸魚は破風板に付いていますが、閼伽棚の破風板は増設した当時のままであることから、おそらく懸魚もその当時のものであろうと推察しました(画像10)
 

 
以上のことから、鎌倉時代には三ッ花・鏑梅鉢・猪目の各種懸魚が寺院建築の破風を飾っていたこと、またそれらの実際の形も確認することができました。

さて、現存する懸魚を辿れるのはここまでです。
ここから先は、手掛かりとなるものを探しながら進んでいくしかありません。
 

平安時代の懸魚

では、時代を遡り平安時代を見てみましょう。

まず、当時「懸魚」という言葉はあったのでしょうか。調べてみますと、例えば『今昔物語集』には僧坊に懸魚があったことが書かれ、他の文献にも記述が見つかりました。最古の日付は平安時代初期のもので、広隆寺金堂の懸魚とその大きさなどに関して書かれています。これらのことから、平安時代に懸魚が用いられていたことは間違いありません。
 

平安時代の梅鉢懸魚

そこで、当時の懸魚の形状を知る鍵として絵巻物を用いました。

平安時代末期に制作された絵巻物を探ってみると、多くの建物に梅鉢懸魚が描き込まれています。画像11画像12の梅鉢懸魚は、どちらも高位の貴族の屋敷に掛かり、懸魚によって檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の側面は引き締まって見えます。しかもその形は、先ほどもご紹介した釈尊寺観音堂宮殿の梅鉢懸魚(画像13)にそっくりです。絵師等の腕の高さと、絵巻物の正確さを確認できる部分ではないでしょうか。
 

平安時代の猪目懸魚

そうなると、もう一方の猪目懸魚がどのような形をしていたのか、知りたくなります。

平安時代の絵巻物から猪目懸魚を探してみましたが、「♡」模様のある懸魚は見つかりませんでした。その代わり、猪目模様はないけれど、外形が猪目懸魚によく似ているものをいくつか見つけました。この懸魚を仮に「猪目懸魚風」と呼ぶことにします。

例えば、平安末期に描かれた『伴大納言絵詞』では、朱雀門、応天門、会昌門など、大内裏の正面に一列に並ぶ門の懸魚は、「猪目懸魚風」として描かれています(画像14)。『吉備大臣入唐絵巻』も同様でした。
 

画像14(h):『伴大納言絵詞』会昌門楼門 懸魚 / 右:拡大図

ところが、鎌倉時代初期に作成された『北野天神縁起』(承久本)には、はっきりと、きれいに♡が刳り貫かれた猪目懸魚が表現されています。(画像15)中央懸魚の両脇に掛かる二つの降(くだり)懸魚にも猪目が刻まれているのがわかります。

『北野天神縁起』(承久本)には、他にも非常に興味深い建物が描かれていました。懸魚や降懸魚は、外側の形も猪目の「♡」も整えられた形で刳りぬかれており、柱から突き出た木鼻(図中青丸部分)にも「♡」が刳られています(画像16)
 

 
猪目懸魚に関して、絵巻からは次のことがわかりました。

平安時代までの懸魚は外側だけが削られ内部は猪目の繰りぬきのない板状の「猪目懸魚風」でしたが、鎌倉時代初期になると「♡」形の猪目を繰りぬいた「猪目懸魚」に変化した、ということです。

もちろん当時の懸魚が絵巻通りの形であったとは言えませんが、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、懸魚の形状に何らかの変化が現れた、と考えられます。時期的には中国から新技術が日本に流れ始めた頃です。部材に装飾が施されるようになった影響で、すでに日本に定着していた猪目の文様を懸魚にも使い出した、と考えることもできます。

寺院建築の懸魚も、平安時代の絵巻には描かれなかったものが、鎌倉時代初期のものには三ツ花懸魚が描き込まれています。
 

奈良時代の懸魚

さらに遡り奈良時代を探ってみます。

直接の史料は見つかりませんでしたが、平安時代の辞書『和名類聚抄』の中の懸魚の項目に、奈良時代成立の『弁色立成』の引用文を載せ説明に代えています。そこには「懸魚俗云如字弁色立成云屋脊桁端懸板名也凡桁端有之」 とあり、懸魚とは棟の桁端に掛けた板のことで、桁の端には大抵ある、ということですから、奈良時代の建物にも懸魚が使われていたことがわかります。

懸魚の形に関しては、奈良時代最古で唯一の絵巻物『絵因果経』を手掛かりに、と調べてみましたが、描かれた建物のほとんどが破風を持たない造り(寄棟造り)なので、懸魚もないため、形がわかりません。破風のついた屋根も数棟ありますが、白く△に塗られたところには何も描かれていないため、これ以上懸魚の形を知ることはできませんでした。

絵因果経が、中国の形式をもとに初唐の画風で描かれていることを考えると、初唐の中国建築に懸魚の形を知る手掛かりがあるかもしれません。今後の課題としておきます。
 

飛鳥時代の懸魚

いよいよ飛鳥時代に遡ります。

手掛かりは世界最古の木造建築、とされる法隆寺西院の建築群です。再建されたとはいえ飛鳥時代の建物ですから、懸魚がどのようなものなのか、大変興味が湧いてきます。そこで、焼失したのち再建第一号となった法隆寺金堂を見てみたいと思います。意外でしたが金堂の破風には唐草模様の透彫の飾り金具が打ち付けられていました(画像17、画像18)
 

 
よく見ると全体の形は猪目懸魚の外形に通じますし、唐草は猪目模様の原型と言えます。また、縦長の形状は、東寺の懸魚に近い、魚をぶら下げた形に見えなくもありません。これが当時の懸魚、ということでしょうか。

しかし、「古い建物に古い懸魚がある、とは限らない」わけですから、この飾り金具がいつからのものなのか調べてみました。

法隆寺金堂は、焼失後、飛鳥時代7世紀末に再建されました。再建に関しては長い論争の結果、ほぼ間違いないこととされています。ですから、もし当初からこの飾りがあるならば、7世紀末の姿形である、と判断できます。

さすがに古い建物ですから、何度も修理されており、特に外観が大きく変わった修理は豊臣秀頼による慶長修理(慶長5年~11年:1600~1606)でした。この時、新たに懸魚を取りつけたことが墨書によって明らかになりました。

その後も大修理を繰り返しますが、昭和大修理の際、旧態の姿に戻すことが決定され、種々の研究、論争、試行錯誤を重ねた結果、現在の姿となったわけです。昭和29年(1954)に金堂の修理がようやく完成したのですが、修理前の金堂の姿をご覧ください(画像19)

慶長修理で取り付けられた懸魚の上に飾り金具が付き、下の両脇には破風板についた花形の飾り金具が付いています。

修理報告書によれば、この飾り金具は建立当初、すなわち飛鳥時代の懸魚とも見られる、と判断されました。報告書ではこの金具は「雄渾」と表現されており、当時の建築に対する敬意が感じられる印象深い言葉です。

この懸魚の存在により、飛鳥時代の懸魚は唐草紋様が浮き出た飾り金具であることが確認できました。しかしこの時代、板状の懸魚は使われなかったのでしょうか。疑問はまだ残ります。

それに対する回答として、推定7世紀制作の中宮寺所蔵、天寿国曼荼羅繡帳が挙げられます。入母屋造りの屋根を持つ鐘楼の破風には懸魚の刺繍があり、やはり板状の懸魚は飛鳥時代にあった、と言いたいところですが、ここでまた大きな事実が明らかになりました。

天寿国曼荼羅繡帳は刺繍された断片を交ぜ合わせて繋ぎ、額装に仕立てたものですが、それらの断片は、全てが飛鳥時代に刺繍されたものではなく、鎌倉時代に復元された断片も交ざっているのです。刺繍や染色など各時代の技法を研究した結果、鐘楼の刺繍部分は鎌倉時代のものであることが確認されました。

ただ、鎌倉時代の復元がどこまでオリジナルに近かったのか、という点についてはわかっていないため、懸魚の刺繍が飛鳥時代からあったのか、鎌倉時代に加えられたのかは判断できない、ということです。

飛鳥時代の懸魚について、存在は確認できましたが、材質や形状に関してはっきりしたことは謎のままです。
 

古墳時代の懸魚

飛鳥時代、仏教とともに朝鮮半島から導入された寺院建築ですが、懸魚も導入されたのか、あるいは日本に根付いていたものを用いるようになったのか。その判断はさらに時代を遡り、古墳時代における懸魚の存在の有無で決着がつきそうです。

古墳時代の懸魚を調べるには、出土品、例えば家型埴輪などしか手掛かりがありません。調べた限りではありますが、この時代、出土したものに懸魚は付いていませんでした。

屋根の細かい部分まで再現しているにも拘わらず、破風部分に懸魚はありません。

古墳は身分の高い人々の副葬品ですから、それらの家形埴輪に懸魚がない、ということは当時の建物、例えば為政者の中心家屋に懸魚は飾られていなかった、と類推できます。

もちろん、今後の発掘で発見される可能性は大いにありますが、現段階において、懸魚はなかった、と結論づけます。 
 

まとめ

以上、懸魚を追ってどんどん遡った結果、「懸魚」は中国、朝鮮半島の影響によって飛鳥時代から定着した建築部材の一つであったことが確認できました。

現存する確かな懸魚が鎌倉時代以前には存在しない中、文献や図像にその痕跡を辿ることができました。
けれど、源流はまだ先にありそうです。

未知の探検領域として、次回の記事ではさらに奥へと踏み込んで行きたいと思います。
 


  • (a)天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』(星野書店 1944)p449 図3(正しくは図2が蓮花門)
  • (b)天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』(星野書店 1944)p449 図2(正しくは図3が慶賀門)
  • (c)梁思成『營造法式註釋』(中國建築工業出版社 1983)p236 図157
  • (d)天沼俊一『日本建築細部変遷小図録』(星野書店 1944)p450 図5
  • (e)『国宝当麻寺本堂修理工事報告書』(奈良県教育委員会事務局文化財保存課 1960)
  • (f)小松茂美編『年中行事絵巻』巻三闘鶏、蹴鞠「日本の絵巻8」(中央公論社 1987)
  • (g)小松茂美編『伴大納言絵詞』中巻「日本の絵巻2」(中央公論社 1987)
  • (h)小松茂美編『伴大納言絵詞』上巻「日本の絵巻2」(中央公論社 1987)
  • (i)小松茂美編『北野天神縁起』(承久本)巻三「続日本の絵巻15」(中央公論社 1991)
  • (j)小松茂美編『北野天神縁起』(承久本)巻三「続日本の絵巻15」(中央公論社 1991)
  • (k)『国宝法隆寺金堂修理工事報告』〔法隆寺国宝保存工事報告書14〕(法隆寺國寶保存委員會1956)附圖 p58 第61図
  • (l)『国宝法隆寺金堂修理工事報告』〔法隆寺国宝保存工事報告書14〕(法隆寺國寶保存委員會1956)附圖 p57 第60図
  • (m)『国宝法隆寺金堂修理工事報告』〔法隆寺国宝保存工事報告書14〕(法隆寺國寶保存委員會1956)附圖 p242 第791図


 
 

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