第2の探検「東福寺仁王門の謎」

 
皆様、建築の森にようこそ。「禅寺建築探検隊」案内係の佐々木でございます。

第2の探検は、東福寺伽藍に建つ「仁王門」です。今回、いよいよ森の奥深くに入ってまいりますので、迷わずに無事戻ってくることができるかどうか不安もありますが、そこがまた、探検の面白さでもあります。

それでは、さっそく第2の探検へと進んでいきましょう。


今回のテーマ:東福寺仁王門の謎

東福寺の北門をくぐると、すぐ左手(北側)に仁王門が建っています<写真1>。仁王門と呼ばれているものの、仁王像もなく、周りを柵で囲まれているため門と気づかず通り過ぎてしまいそうな、小規模な建物です。
 

写真1:東福寺 仁王門

 
また、東福寺の仁王門であるなら、中心伽藍にあってしかるべき建物ですが、かなり外れた位置にあることから、何らかの理由で移築されたか、あるいは別の寺院の建物がこの門の向こうにあった、と考えられます。

これだけでも何か謎めいたものを感じさせますが、さらに建物全体から漂うアンバランスな感じが妙に引っ掛かり、思わず足を止めてしまうほどです。小ぶりな建物の割にはかなり太い柱が使われ、それに対し意外に組物が小さく、様式の混在に収まりの悪さが感じられます。材の古さや彫刻の意匠から、少なくとも江戸期以前の物であることは想像できますが、「見事な建物」というには抵抗があります。

そこで近づいてじっくり眺めてみると、その原因が見えてきました。<写真2>の赤い矢印部分をご覧下さい。正面の太い柱、控柱《ひかえばしら》の足元には、別の部材がはめ込まれていた痕跡が残っています。
 
 

写真2:東福寺 仁王門 控柱下部

 
この柱だけではなく、他の柱にも同じ切込みが見られ、これらの柱の上部には穴を埋めた補修の跡が見えます。また頭貫《かしらぬき》の上には台輪《だいわ》が載っていますが、その材をよく見ると凸凹が見られ、明らかに別の用途に使われていたものを台輪に転用したことが見て取れるのです。

寺院の正面入り口に立つべき門が、どう見ても再利用の材で出来ているとは、と思ったものの、厳しい条件の下で工夫を凝らし何とか建て直したのでは、と考えてみますと、アンバランスが却って建物の逞しさを醸し出しているようにも見えてきました。

めったに見られない希少な部材=短冊彫飛紋とは

そしてこの時、非常に珍しい部材も転用されていたことに気づいたのです。めったに見ることのできない稀な部材を見て、この建物の持つ別の価値に気づきました。まさに今回の探検は、この部材をめぐる旅とも言えるでしょう。

<写真3>をご覧下さい。柱に取り付く上下2本の部材、それぞれ頭貫《かしらぬき》(上)と飛貫《ひぬき》(下)には、短冊状の横に細長い長方形の紋が彫り込まれています。
 
 

写真3:東福寺 仁王門 短冊彫飛紋

 
同じ紋のついた材は建物側面にも使われています<写真4>。この意匠には決まった名称はなく、短冊彫飛紋《たんざくぼりひもん》、あるいは短冊型彫込《たんざくがたほりこみ》などと呼ばれている紋様です。
 
 

写真4:東福寺 仁王門 側面

 
門中央部の柱(本柱)上部を拡大した写真からは、短冊状の彫込紋や補修の痕、転用の様子がよりはっきりとご覧いただけると思います。<写真5>
 
 

写真5:東福寺 仁王門 本柱上部

 
私が、短冊状の紋のある部材を「めったに見ることのできない稀な部材」と呼んだ理由は、私の知る限り日本では東福寺仁王門以外にはないからです。かつて、醍醐寺経蔵にも使われていましたが、残念なことに昭和14年、山火事で焼失してしまいました。そのため、唯一この東福寺仁王門にのみ残された部材、ということになるのです。

なぜ、ここにしかないのでしょう。醍醐寺経蔵のように焼失したり、長い年月の間に朽ちていったり、戦で壊されたりしたのでしょうか。消えていった要因はいくらでも考えられますが、やはり、東福寺にしか残らなかった、ということには何か特別な理由があるはずです。

疑問を明らかにするためには、まず仁王門の歴史的変遷を追わなくてはなりません。

東福寺仁王門の歴史的変遷

東福寺仁王門は、元々は三聖寺《さんしょうじ》の門として、ほぼ現在地に建立されたようです。三聖寺は、円爾《えんに》禅師に帰依した東山湛照《とうざんたんしょう》によって東福寺の寺内に開かれた塔頭です。鎌倉時代、中国の禅院式に整備された伽藍の様子が三聖寺古図に描かれています<図1>。
 
 

図1:三聖寺古図 部分(*1)

 
この立派な伽藍も火事で全山焼失してしまいます。しかし全焼した直後、足利義満の復興によって仁王門は明徳2年(1391)新たに建立されました。

現在の仁王門は慶長2年(1597)に再建されたもので、義満建立から200年の月日が経っています。この間、室町幕府の権力が衰えるのに伴い、五山禅宗寺院は経済的にひっ迫していました。このような中での仁王門の再建は、やはりかなり厳しいものがあったのでしょう。転用材を用いたのもいたしかたないことと思われます。

以上、仁王門の再建、修理を通し、三聖寺伽藍の変遷も見えてきました。より詳しく見ていくことで、どのような様式が用いられていたかがわかるかもしれません。そうなると、部材と様式のつながりも明らかになるのではないでしょうか。

ただ、三聖寺の伽藍に関する情報は限られているため、その変遷を知る手掛かりとして三聖寺の伽藍が形成された同時期の東福寺の様子から推察してみます。これらの関係を図にまとめたものをご覧下さい<図2>。
 
 

 図2:東福寺と三聖寺における伽藍と建築様式の時代的変遷

 
藤原道家が東福寺建立を発願し、嘉禎2年(1236) には東大寺のような大仏を祀るための大伽藍の造営が始まっていました。この作事に携わっていたのは、東大寺再建で「大仏様《だいぶつよう》」の技術を身に着けていた工匠たちです。大仏様は、重源が中国福建周辺の建築を参考にして創り上げた、新規の技術を要する全く新しい様式でした。伽藍建設は長期間の大工事であったため、東福寺と大仏様のつながりは深かったようです。

しかし、円爾が東福寺開山として伽藍整備に入った段階で、工匠組織に変化があったと考えられます。大仏様ではなく、円爾自身の入宋経験をもとに、浙江地方の禅宗寺院で用いられた様式を採用したのです。

つまり、東福寺の建築は、伽藍中央の一直線上に並ぶ山門、仏殿、法堂は大仏様を用いたけれども、その他周囲に配された建物は、南宋浙江地方の影響を受けた建築でまとめられていた、ということです。

円爾に帰依した湛照ですから、同時代に建てられた三聖寺の建造物もその影響を受けて浙江地方の様式を用いていたのでは、と推測できます。

南宋浙江様式の影響

そこで、中国浙江地方に短冊型飛紋部材を用いた建築物があるのか、調べてみますと、ありました。浙江地方における最古の木造建築である保国寺大殿にこの紋が使われていたのです<写真6>(*2)。
 
 

写真6:保国寺 大殿(*2)

北宋1013年に再建された浙江省寧波にあるこの建物には、頭貫や飛貫にはっきりと短冊彫飛紋が彫り込まれていることがわかります。しかも、東福寺の禅堂や東司と同様、大仏様ではなく、台輪を用いずに組物を載せる形式の建物です。

さらに、第1回目でお見せした同じ写真をもう一度掲載します。
 
 

写真7:霊隠寺 双石塔

 
浙江省の杭州にある霊隠寺双石塔(五代末期~北宋初期)<写真7>です。頭貫の上に台輪はなく、組物が頭貫の上に直接置かれており、さらに頭貫には、短冊型が彫り込まれています。この短冊型は保国寺大殿を見てもわかるように、石塔の飾りではなく、実際の木造建築物の写しの一環として彫られたものです。

その結果、この塔がモデルとした建築物は、大仏様ではなく、禅宗様の特徴を持つ木造建築であることがわかります。円爾入宋の頃、浙江省にはまだこのような紋様が彫り込まれた部材がそこここで使われていたのかもしれません。

恐らくこの建築様式は古式の方法だったのでしょう。保国寺大殿より後の建物には、この紋様を見出すことはできませんでした。大仏様が影響を受けたとされる福建省近辺の古建築にも、このような紋の彫込がある建築物は発見できませんでした。また禅宗様の本拠地である北方の古建築にも見ることはできませんでした。

すなわち、南宋末期において、浙江地方の古くからの建築様式が日本の入宋僧たちを通して日本に伝わった、という事実が、短冊彫飛紋の部材を通して明らかになったのです。

これらのことから、三聖寺伽藍に短冊彫飛紋の彫られた部材が使われ始めた時期は、三聖寺伽藍が開かれた当初の鎌倉期であり、東福寺大工たちの集団が、入宋僧たちから情報を得て技を磨き、浙江地方式の建築に彫込のある部材を用いて構築したものと考えられます。

そのデザインはそれまでとは異なる新規さをもたらしたのでしょう。そのため、全焼し再建を図る南北朝期であっても、鎌倉期から用いていた南宋浙江方式で伽藍を整備したことが十分に想像できます。そして、この頃使われていた部材を、さらに慶長期の再建時に転用した、と考えることができるのではないでしょうか。

まとめ

さて、今回の謎の旅は、短冊彫飛紋のある部材が、なぜ東福寺だけに残っているのか、その理由を探ることが目的でした。答えとしては、以下のようないくつもの条件が重なったから、と言うことができるでしょう。
 

  1. 東福寺創建時、重源による東大寺再建は終了し、重源が開発した大仏様の使用も減少していた。
  2. 東福寺創建時、禅宗寺院が用いる禅宗様はまだ日本には入っていなかった。禅宗様が広まったのは、中国僧蘭渓道隆が建長寺を開いた後のことである。
  3. 東福寺創建時、栄西が用いた南宋浙江地方の建築様式を、円爾も用いた。
  4. 当時、伽藍建築の工事を行っていたのは東福寺だけであった。最初の禅宗寺院を開いた建仁寺は火災で焼失し、まだ再建工事が始まっていなかった。他の禅宗寺院が開かれるのはかなりあとであった。

 
以上の出来事が重なった結果、東福寺創建当時、東福寺にだけ南宋浙江地方の建築様式が採用され、その建物には短冊彫飛紋の入った部材が用いられたのです。その影響を受け、三聖寺伽藍でも同じ様式が使われ、その技術や志向は禅宗様が広まった南北朝時代(円覚寺舎利殿建立時期)頃まで引き継がれていきました。三聖寺伽藍は、東福寺伽藍と異なり足利義満再建後も大きな災害に遭うことなく明治期の廃寺まで続きました。そのため、仁王門も慶長期の再建時に他の建物から短冊紋の入った部材を転用でき、その後も修理を続けることができたのです。

これらのことが、仁王門の部材に短冊彫飛紋が入っていた理由であり、かつ、他の寺院ではなく東福寺にのみ残っていた理由と考えられるのです。

みかけは四角の彫込がしてあるだけの、古ぼけた部材が、実は日本建築と中国南宋建築、ひいては禅文化の結びつきまでも雄弁に語る重要な遺物であったことが確認できました。

今回の探検は、これでおわりです。
 
 


 
(*1)関口欣也『五山と禪院』[名宝日本の美術 第15巻](小学館 1991)「D:三聖寺古図(部分)京都東福寺」
(*2)郭黛姮主編『宋、遼、金、西夏建築』〔中国古代建築史 第3巻〕(中国建築工業出版社 2003)P302 図6-79
 
 

page up