般若心経散策 第三集(2)

山田 真隆
2025/11/22

「波羅僧羯諦」共に行き着く悟りの地とはへ~第2回

 
「般若心経散策」は、『般若心経』(以下、『心経』)の語句を取り上げて、よく詳しく見ていくコンテンツです。

第3集は「波羅僧羯諦」。

その第1回では、「羯諦 羯諦 波羅羯諦」・色即是空と、悟りの片道を行ったら、今度は、「波羅僧羯諦」・空即是色と帰ってくる。その帰ってきたところが、「菩提薩婆訶」・悟ったものが自ずと達する幸せだという話をしてきました。

第2回では、さらに深めていければと思います。


行って帰ってという『心経』の教えを、さらに山登りに喩えて、巧みに謳った漢詩があります。作者は、おなじみの白隠禅師であります。
 

徳雲の閑古錐《とくうんのかんこすい》
幾たびか妙峰頂を下る《いくたびかくだるみょうぶちょう》
他の癡聖人を傭うて《たのちせいじんをやとうて》
雪を担って共に井を塡む《ゆきをになってともにせいをうずむ》

徳雲というのは人の名です。徳雲比丘という『華厳経』というお経に出てくるお坊さんです。長年修行を積んだ高徳の立派な方です。

そのような立派な方が妙峰頂という高い山のてっぺんにおられたが、何度もその山を下ってこられた。
何のためかというと、癡聖人という、もう一人の高徳の聖人を伴って、井戸に雪を詰め込んで埋めようとしていた、ということです。

井戸に雪を投げ込むということは、すぐに融けていつまで経っても井戸は埋まりません。そんな一見無駄なことを、偉いお坊さんがやっているということはどういうことでしょうか。


この話に出てくる徳雲比丘と癡聖人はどちらも高徳の方々です。
ところが徳雲比丘は「閑古錐」・先の丸くなった古い錐、そして癡聖人には「癡」・おろかという表現をしています。どちらも、一般的には価値が無い、役に立たないというものです。
確かに井戸に雪を投げ込んで埋めようなんて、私たちからすればおろかに見えます。

しかし、価値が無いからこそ、価値があるというとらわれがないのです。
役に立たないからこそ、役に立つという驕りがないのです。
そして、それはさきほどの平凡・普通とつながります。

また「共に」という言葉も見逃せません。

「共に」は前回の話で出てきた「波羅僧羯諦」の「僧」に当たります。どちらもとらわれがないからこそ、「共に」井戸を埋めるということができる。
どちらかに、またどちらにも「私は聖人だ」という意識があったら、いずれ共に井戸を埋めるという愚行を続けることはできないでしょう。

悟りということが平凡な日常にあるのなら、その悟りを活かして人助けすることも、平凡な日常の中にあるということです。特別な、いかにも役に立つことをするのが、世の中のためになるのではないということです。
本当の人助けとは助けているという意識すらないものなのです。

ですから、そのことを白隠禅師は「閑古錐」「癡」という言葉に込めたのです。
また「共に」の言葉にも教えが詰まっていることを見なければなりません。

現代社会は、とにかく人に認めてもらって評価をされ、その評価が高ければ高いほどよい、だからその評価を得るために、いかに価値が高いか、役に立つかの競争です。そのことは、ある程度までは世の中を豊かにし、暮らしを楽にします。

しかし一方で、その考え方一本では、いずれ行き詰まってしまうことも知っておかなくてはなりません。
その時こそ、この徳雲比丘と癡聖人の話を思い起こしたいものです。

(第3回へ続く)

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