般若心経散策 第三集(1)

山田 真隆
2025/10/22

「波羅僧羯諦」共に行き着く悟りの地とは~第1回

 
「般若心経散策」は、『般若心経』(以下、『心経』)の語句を取り上げて、よく詳しく見ていくコンテンツです。

第3集は「波羅僧羯諦」、第二集で取り上げた「菩提薩婆訶」の直前の語句です。
順番があべこべなのは、ぶらぶら歩く「散策」ならではの趣ということで、ご容赦を。

『心経』中で漢訳・中国語訳されずにそのままにしてあるのは、第2集で述べた通り。
それほどまでにして『心経』のこの部分の誤解を避けようとした理由は、『心経』の心髄がここにあるからです。

それでは、テーマの「波羅僧羯諦」を見ていくことにしましょう。


羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
《ぎゃーてい ぎゃーてい はーらぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼーじーそわか》

意味は、

「行こう、行こう、悟りへ行こう、悟りの世界に完全に行こう、悟りよ幸あれ」

となります。

ここは文法も通常のサンスクリット語とは違っており、正確に訳することはできないと言われています。ですから、これも訳の一例ということになります。
他にも様々な訳をされているものが有りますが、別にどれが正しく間違いということも言えません。

今回は先ほど示した訳でいきたいと思います。

「羯諦」というのを「行こう」と訳しました。行くということは、今現在いる場所から離れ、目的地に向かうということです。その目的地はどこかというと、「波羅羯諦」・悟りへ行こう、となります。
そしてさらに「波羅僧羯諦」悟りの世界へ完全に行こう、と続いていきます。
最後は前回取り上げた言葉「菩提薩婆訶」・悟りよ幸あれ、称える言葉で締めくくっています。

玄奘法師が誤解をどうしても避けたかった理由として、『心経』の心髄がこの真言にあると言いました。
短い276文字をさらにグッと凝縮したものが、この「羯諦 羯諦……」の一節に詰まっているわけです。

つまり『心経』を一言でいうと「空」ということになり、またもう少し付け加えていくと「色即是空 空即是色」となります。
それをさらに言い換えているのが、「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」ということなのです。


「羯諦 羯諦」は「行こう、行こう」と誘っている言葉です。

誘っているということは、自分以外の誰かの存在を感じさせます。その誰かと、今いる場所ではなくてもっと他のどこかに行こう、と誘っているわけです。その場所とは、彼岸・即ち悟りということです。
「波羅羯諦」・悟りの世界という場所に行こう、と、ここまでが言ってみれば「色即是空」です。

その自分以外の誰かが何なのか?

実は今回取り上げる「波羅僧羯諦」・悟りの世界に完全に行こう、の中に謳われています。「僧」は「完全に」と通常訳しますが、「一緒に・共に」という意味も持ちます。

つまり、一人で彼岸に行くのではなく、あなたもわたしも「共に」行く。完全に行くというのは、そういう意味だとも取れます。
それは、もっと踏み込んで言えば「みんな」のいる世界に帰っていくというイメージでしょうか。

悟りという空の世界を体験したら、今度は色・私たちの日常・普通の世界に帰っていく。そうすれば自ずと「みんな」で行くことになります。
その状態がまさに『心経』が指し示す世界です。

色という個々が活き活きと働いて、空という全体を構成する。
そして、ことさら別の場所に行かずとも、いまここの日常が悟りの世界である、ということにもなります。


世界的名指揮者であったヘルベルト・フォン・カラヤン氏(オーストリア、1908~1989)が来日し、NHK交響楽団の指揮したときの話です。

カラヤン氏は開口一番「合いすぎる」と厳しく注意しました。それは、バラバラに弾けというのではなく、「器用に合わせるな、全員がソリスト(独奏者)になった気持ちで自分の心をこめ、同時に全員で一つの人格として、中味の濃い、質の高い音楽を目指せ」という意味での注意でした。

『心経』の説く「色」と「空」の関係に共通する話です。色(一人)が空(全員)であり、空が色でもあるのです。しかも意識してそうするのではなく、自然とそうなっているのです。

だから「波羅僧羯諦」の「羯諦」というのは、それまでの「羯諦」・行こう、とは異なり、「帰る」というニュアンスにとったほうがよいと思います。これで「空即是色」ということになります。

私たちの今いる場所を0度とすれば、「羯諦 羯諦 波羅羯諦」と行ったところが180度でそれが「色即是空」、さらに「波羅僧羯諦」と帰っていくと360度となり、それが「空即是色」です。
だから、結局のところ、元の日常・普通に戻るのですが、0度と360度が違うように、波羅僧羯諦と日常に戻ってきた私たちの心は、最初とはちがうのです。

東京龍源寺の御住職を勤められた松原泰道先生は、そのことをこう示されています。
 

どの道でも、奥義というものがあります。お茶でも花でも、その道の心髄ともいうべき「道髄」は、特殊のことではなく、きわめて普通のことです。宗教でもそうです。しかし、苦心して体得した平凡の大いなる意味と、何も知らずに、安直に平凡としてうけとるのとでは、大きな距離があります。平凡という形で表れている現象の奥に、筆舌では表現できない真実を汲みとらねばなりません。

ある芸道の皆伝のしるしは、一枚の白紙であると聞かされて深く感じました。平凡の奥深さを知らすがために秘するのです。重要書類のマル秘とは異なります。

平凡であるがゆえに秘するのです、誰もが知っているからこそ秘するのです。明かされた秘密であるからこそ秘するのです。

(松原泰道師『般若心経入門』)

『心経』の奥義は、平凡・普通であった、といえば、皆さん驚かれるでしょう。

でも平凡であるということは、とても大事なことです。平凡だからこそ、あらゆる人が体験できる、みんなで行くことができる。限られた人、特別な人しか体得できないものであったら、仏教はなんと間口の狭いものになっていたであろうかと思います。

ですから、私たちの誰もが体験する日常の生活そのものの中に、『心経』の奥深い教えが実はある、ということです。

禅を世界に紹介したことで知られる仏教学者の鈴木大拙博士は、
 

禅の発達とともに、神秘主義は神秘主義でなくなってしまった。それはもはや異常ある心の発作的の産物ではなくなった。すなわち禅は日常生活そのものの事実を認めることによって、最も平凡な、そして最も平穏な、普通人の生活裡に現れているからである。

(『禅学入門』)

と言いました。

日常生活の事実をそのまま受け入れることが、悟りであり、禅であり、『心経』で説かれている「空」であります。
そして、そういった生活を送っていけば、むやみに何かを求めずとも自ずと幸せである、ということです。

だから「波羅僧羯諦」の次の言葉「菩提薩婆訶」・悟りよ幸あれ、は、そうやって日常生活を送っている私たちみんなに送られているエールといっていいでしょう。

(第2回へ続く)

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