微笑は ほほえみをよぶ 春の風

野田 芳樹
2023/4/1

上の画像の「微笑みは ほほえみをよぶ 春の風」という言葉は、私のお気に入りの禅語の一つ「桜花微笑春《おうかみしょうのはる》」から着想を得て拝書しました。

「桜花微笑春」は、「春になり桜桃などの花々が各所で咲きはじめ、その様子はあたかも春の訪れを喜びほほえんでいるようだ」というほどの意味の、季節の情景を愛でる禅語です。うららかな春風に吹かれ花々がほほえんでいる様子を想像すると、思わずこちらまで頬がほころぶような朗らかな気持ちになれます。

「ほほえみ」には人生のつらいときを乗り越え、春風のような温かさを心にもたらす力があります。私たちは、人生の厳しい冬の時期を、ほほえみで喜びの春へと転化していくことができるのです。


今回したためた「微笑みは ほほえみを呼ぶ 春の風」という言葉を、私自身もとても大切にしています。それは、今は亡き祖父との大切な思い出に根差しているからです。

祖父は私が副住職を務める林昌寺の先代住職でしたが、もとはお寺の生まれではなく、百姓一家の出身でした。幼少期に親の意向でお寺に小僧として預けられ、師匠にしごかれて僧侶になったと聞いています。そのためか、何をするにもきちんとやらなければ気が済まない、しっかりとした性格でした。一方で、とても気さくな笑顔を振りまく人でもありました。孫の私にはいつも優しく接してくれ、小さい頃にはお経のよみ方や竹細工の作り方、そろばんのやり方などたくさんのことを教えてくれました。

ところが、私が大学にあがるころ、祖父の様子は徐々に変わっていきました。しっかりしていた祖父が、ときどきお参りに行くことを忘れたり、お経を間違えたり、人の名前を忘れるようになっていったのです。その程度は日を追うごとにひどくなっていきました。そう、祖父は認知症になっていたのです。

祖父が認知症になったと知ったとき、私は失意のどん底に突き落とされました。発覚したのはちょうど冬の時期でしたから、季節の寒さもあいまって身も心も凍てつくような感覚に襲われたことを今でも覚えています。「あの優しい、笑顔の素敵なおじいちゃんがいなくなっちゃうんだ」――そんな絶望感がいつも頭をもたげていました。弱っていく祖父を見るのが忍びなく、常に胸が締めつけられる思いを抱えていました。

祖父の認知症が発症して何年か経ったある春の日のこと。病状が進行し、とうとう私の顔を思い出すこともままならなくなっていた時期、祖父が休んでいる居室に物を取らねばならない用があり部屋を訪れました。そのとき、私は「話しかけても忘れられていたらつらいし、できるだけ話さずに部屋を出よう」と考えていました。苦しい現実を直視できなかったのです。すると帰り際、祖父は「ちょっと待ちなさい」と私を呼び止めました。おそるおそる「どうしたの…?」と祖父に向きあうと、祖父は私の顔をしげしげと眺め、ニコッとほほえんでこんな言葉をかけてくれました。

「あなた、迷子か?お煎餅あるけど、食べる?」

この言葉と、祖父のニッコリした顔を見聞きしたとき、辺りに春風が吹き抜けたような心地がして、心がじんわり温かくなったことを覚えています。「あぁ、記憶は薄らいでいるかもしれないけれど、優しいおじいちゃんはどこにも行っていなかった。人が元々持っている素敵な心は病気などでは侵せないのだ。」という安心感に包まれました。そして思わず私も頬がほころんで、「うん!」と笑顔で返事をし、一緒にお煎餅を食べたことは忘れられない祖父との思い出です。


今にして思えば、私はその頃いつも険しい表情をしていたのだと思います。祖父は、現実を直視できない混迷のただ中にいた私を「迷子か?」と心配し、春風のようなほほえみを投げかけることで凍てついた心をとかしてくれました。

よく考えれば、このような祖父の慈しみの心やほほえみは本当はいつでも側にあったはずです。私は、現実に目を背けていたせいでそのことに気づくことができていませんでした。私たちはとかく冬のような辛い出来事を経験すると、「早く穏やかな春が来てほしい」と願うものです。しかし、冷たい冬のような閉塞感のただ中にあってもそこに春の温かさがあるのだと気づくことこそが大切であり、私たちはいつでも春風に吹かれているのだと心からうなずきとれた時、その喜びから思わず笑みがこぼれるのではないでしょうか。

「微笑みは ほほえみをよぶ 春の風」

ほほえみを湛えても、お互いが直面するつらい状況そのものは変わらないかもしれません。しかし、そこに向きあう私たちの心は確かに朗らかに変わっていくと思うのです。そしてその様子は、周囲の人たちの喜びや安心にもつながっていくことを信じてやみません。
 





*この文章は『禅文化』第260号(発行:公益財団法人 禅文化研究所/2021年4月25日発行)に寄稿した文を加筆・修正したものです。

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