漢詩徒然草(3)「蟷螂」

平兮 明鏡
2021/7/1

山園萬綠夏陽深 山園 万緑 夏陽深し
胡蝶何求何處尋 胡蝶 何をか求めて 何れの処にか尋ねん
甘露淸香必無醉 甘露 清香 必ず酔う無かれ
蟷螂磨斧亂花陰 蟷螂 斧を磨く 乱花の陰

胡蝶 … 蝶
蟷螂 … カマキリ
亂花 … 咲き乱れる花


今回は、漢詩を題材に創作についてお話したいと思います。

詩を作っているときには、「思うように表現できない!」と思うことがよくあります。漢詩に限らず、すべての創作は「自分の心」をどう表現するか?ということなのですが、しかし、それは自分の心の中だけで成り立っているのではありません。当然、そこには描くべき「対象」が存在します。

つまり、自分の心が、その対象をどのようにとらえ、どのように感動しているのか?ということに、まず気付かなければなりません。

そして、感動というものは、本来、言語化できないものなので、そのままでは他人に伝えることはできません。創作が自分以外の人にもその感動を伝えようとしているものである以上、その「自分の心」と「対象」を繋ぐための表現手段としての「アイディアや着想」が必要になってくるのです。


 
初夏の陽射しの中、緑あふれる山園を蝶がひらひらと舞っています。よい香りや甘い蜜に誘われて、蝶はあちらに行ったり、こちらに行ったり。しかし、その花の陰には、研ぎ澄まされた斧がキラリと光り……。

「好事魔多し」ということわざがあります。

これは、「良いことが起ったときや物事が上手くいっているときほど、邪魔が入りやすい」という意味です。つまり、そのようなときこそ気を引き締めて事に臨みなさい、という戒めになります。

しかし、「好事」である時点では、当然、まだ悪いことは起こっていません。往々にして「魔」が現れてから、初めて「魔」の存在に気付くものです。だからこそ、そう戒めているわけですが、詩を練っているときには、これはヒントになります。つまり「好事」の中に「魔」を配置して、その「ギャップ」を利用するのです。「意外性」ということもできるでしょう。

この詩は、詩題、つまりテーマが「蟷螂」なのですが、蟷螂が登場するのは最後の結句だけです。結句以外は、むしろほとんどが蝶の描写になっています。主役は普通、もっと早くに登場させますが、ここはあえて最後にしました。その方が、逆に主役が引き立つと思ったからです。

つまり、蝶は蟷螂の引き立て役であり、蝶の描写である起句・承句・転句の内容は、すべてこの結句のためにあります。蟷螂より蝶の描写の方が圧倒的に多いですが、実際に最後まで読んでみたあと、蝶と蟷螂、どちらが印象に残りましたか?

冒頭のことわざに例えると、起句・承句・転句が「好事」、

山園萬綠夏陽深 山園 万緑 夏陽深し
胡蝶何求何處尋 胡蝶 何をか求めて 何れの処にか尋ねん
甘露淸香必無醉 甘露 清香 必ず酔う無かれ

結句が「魔」です。

蟷螂磨斧亂花陰 蟷螂 斧を磨く 乱花の陰

始めに、のどかな山園の風景を詠みあげ、次にひらひらと舞う蝶を登場させます。転句では、「甘露」「清香」と、蝶にとってこの上ない「好事」を見せつつも、不穏な空気を匂わせて、「無《な》かれ」の一字で大転換を迎えます。そして、最後には、その咲き乱れる花の陰では……、というわけです。結論は出さずに読み手には不安を残したまま、静かに幕引きとなります。

蟷螂を表現するには、決して派手な恐ろしさなどは必要なく、むしろ「好事の中に潜む魔」というイメージこそがピッタリだと感じたのです。そして、その表現に必要なものは、ギャップや意外性でした。今回は、そのことわざの中に自分の描きたい対象を表現するアイディアを得たのです。

詩を作るときは、ただ漫然と作るのではなく、例えば今回のように、ことわざから着想を得たりして、自分がその対象をどのようにとらえ、どのように感動しているのか?に気付くことが大切です。何もないところから、いきなりものを生み出すことはできません。いろんなところにヒントは隠されています。作り始める前に、少し周りを見渡してみるとよいかもしれません。


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山園萬綠夏陽深 山園 万緑 夏陽深し
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胡蝶何求何處尋 胡蝶 何をか求めて 何れの処にか尋ねん
○●○○●○●
甘露淸香必無醉 甘露 清香 必ず酔う無かれ
○○○●●○◎
蟷螂磨斧亂花陰 蟷螂 斧を磨く 乱花の陰

平起式、「深」「尋」「陰」下平声・十二侵の押韻。転句下三字は挟み平です。

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