「放下著」~下せないなら担いでいく(3)

山田 真隆
2026/3/22

前回までは問答を中心に話を進めてきました。
今回はその問答から私たちが何を学ぶべきかについて見ていきたいと思います。

「放下著《ほうげじゃく》」ということ、ここまでで、ちょっと疑問に思いませんか?
「仏教の目的は悟りを得ることではないのか? それなのにそこにとどまってはいけないとは、どういうことか?」という疑問です。

悟りを得るという目的を果たした善信に対して、称賛するわけではなく、にべもなく、下ろせ、という趙州。

ということは、仏教や禅の目的は何なのか?ということになります。


日常生活で私たちはいろいろな目的をもって事に当たります。

例えば、学生の時は勉強や部活動などもそうです。社会人になってからは会社での仕事などもそうでしょう。それぞれに目的や目標をもって、それに到達するよう努力する、というのが常ではないでしょうか。

そのような日常を繰り返していると、目的をもって到達するように生きることが人生の前提になってきます。目的がさらに意味になり、人生の意味、生きる意味なんかを模索するようになります。一時期流行った自分探しなんていうのもそうでしょう。

しかし、目的を置いて到達する、到達すればまた次の目標へ、ということを続けていくうちに、見失うものが確実に出来てきます。

何を見失うのかというと、それは禅で最も重要視する、自分自身ということです。


目的を置くということは、成果が目に見えるものならいいですが、人間の人生や心のような、目に見える価値では計りがたいものを扱う場合には適しません。

ですが、私たちは目的を置くことになれてしまうと、自分の人生すらも何らかの目的を置いて、それに到達すれば幸福だとか、豊かだとしてしまいがちです。

一見、人間の欲求として当たり前の、幸福や豊かさを目的とすることは、実は大きな落とし穴があるのです。目的を置いてそれを目指すことは、今の自分自身を自分で否定していることにならないでしょうか。

言い換えれば、今の自分は幸福ではない、豊かではない、と自分で白状しているようなものです。
宗教的な言い方をすれば、今の自分では自分の救いにならない、ということです。

自分で自分を否定しなければならないほど、悲しいことはありません。


仏教では、あるいは禅では、最大幸福と目される悟りといえども目的にしない理由はそこにあります。
それで「放下著」・心がとどまることがなければ、目的の置きようが無くなります。

目的が無いということは、目指す理想とする自分は無くなり、今の自分と向き合うしかない。そこには必ず自分が必要とする救いがあります。

だから趙州が善信に言った「担取し去れ・担いでいけ」というのは、一物を持たないという妄念を抱えたまま、今のおまえさん自身と向き合って、それをまるごと担いでいけ・救っていけということなのではないでしょうか。

結局のところ、「放下著」とは、自らの救いを全うするための教えがこもった禅語なのです。

(第4回に続く)

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