「放下著」~下せないなら担いでいく(2)

山田 真隆
2026/2/22

前回の話で、師の趙州和尚に「放下著《ほうげじゃく》」・下ろしなさいと言われた善信は、それでは納得がいかなかったようで、さらにこう続けます、

已に是れ一物《いちもつ》不将来《ふしょうらい》、箇《こ》の甚麼《なに》をか放下せん。

「下せと言われても、すでに私にはこれ以上下すものがありません」とやり返したのです。
自分のやってきた修行に自信を持っていた善信は、そう簡単には引き下がりません。

かといって、先に趙州に、おろせと指摘された心のとどまりを、善信は解決できたわけではないのですが、何と言われても、自分にはもうおろすものが無いと言って譲りません。


こういうところが禅の面白いところの一つだと思います。

禅問答に出てくる人々は、物分かりがいい人、素直な人ばかりではなく、ひねくれた人も多く登場します。自分の誤りを問答の最後に至っても認めない人も登場します。
また、この問答の善信のような、必死に修行したからこそ出てくる我欲、あるいは自己承認欲求のようなものも描かれています。

そんな生々しいものがなぜ描かれているかというと、禅ではそういった欲求を完全否定せず、ある程度肯定しているということに他なりません。

そういった点で、禅という教えには、大らかな人間性の肯定というところが多分にあります。
趙州の最初の指摘である「放下著」も、「おろせ」ということであり、「持つな」ということではありません。

つまり、一物も持たないという「とどまり」を全否定しているわけではありません。

趙州は善信がこれまでにやってきた修行の成果を認めているわけです。
だけど、そこにとどまってはいけないよ、という教えが「放下著」ということなのです。


その趙州の姿勢は最後まで同じで、私にはこれ以上おろすものがありません、という善信の応答に対しても、

放不下ならば、担取《たんしゅ》し去れ。

下ろしきれないなら担いでいけ、と返しています。
ここで、普通なら、また「放下著」とやるのかもしれませんが、言葉使いが巧みな趙州は、同じ言葉は使わず、担いでいけ、と「放下著」とここでも一見して矛盾する全く逆のことを言っています。

言葉の意味としてまったく逆に見えますが、その真意は「とどまらない」というところは同じです。しかも、善信の修行の成果ともいえる、すでにもうおろすものが無い、という応答も否定していないことも同じです。

この問答をもって、善信は大悟しました。

「放下著」は、善信にとって大きな悟りのための最後の1ピースだったのでしょう。
「放下著」と言っても「担取し去れ」と言っても、その真意は同じことを言っているところが、禅語の持つ、奥深く面白いところ、味わうべき点だと思います。

以上、「放下著」の問答を見てきました。
次回は、この「放下著」がどう人生に生きるのか、を考えていきたいと思います。

(第3回に続く)

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