禅の歴史 – 中国編

山田 真隆
2021/4/8

禅の草創

達磨から五祖まで~新しい仏教の始まり

今から約2600年前、北インドにて釈尊が仏教を開かれてから約900年後の中国で、禅宗は生まれました。当時の中国は南北朝時代という、南朝に梁、北朝に北魏という王朝が両立した状態で、どちらも熱心に仏教を信仰していました。そこへインドから達磨という僧が訪れたことによって、新しい仏教・禅宗が開かれました。

実のところ、達磨という僧については、細かいところは謎が多いとされています。結局、現在では後世に中国禅宗の理想像を人格化したものだといわれています。

また禅宗も、インドからの釈尊以来の法を脈々と受け嗣いてきたものではなく、あくまでも中国にて、世の喧騒を嫌って山中などに隠棲していた賢人らから発生したものだとされています。

インドから渡来した達磨と、梁の皇帝・武帝とのやりとりが現在まで伝わっていますが、その中で仏教を信仰することの効能を説く武帝に対し、達磨は人間の根本の心について説き、二人の会話がかみ合わない様子が描かれています。これは達磨が説く禅の教えが、それまで中国に広まっていた仏教と比べてどれほど違うかを示したもので、後発の禅宗が先発の諸宗派との立場を際立たせるという意図があったと考えられています。

その後、梁から北魏に渡った達磨は、少林寺にて慧可《えか》という中国僧に法を伝えます。慧可は達磨への入門の決意を示すために自分の腕を切断したと伝わっており、このときの様子が室町時代の水墨画家・雪舟によって描かれたものがあります。この慧可が禅宗の二代目となっており「二祖」と呼ばれています。

それ以降、禅宗は少しずつ中国の社会に広まり、三祖、四祖と法の伝達が行われ、殊に五祖弘忍《ぐにん・こうにん》に法が到ってからは、また新たな展開が禅宗に起こるのです。

禅の勃興

五祖から六祖へ~隆盛の兆し

時は達磨の時代より150年ほど下り、王朝は唐となって安定しつつある頃、五祖寺(現・湖北省黄梅県)にて数多の修行僧を指導する立場にあった五祖弘忍の元へ、一人の青年が訪れます。その名を慧能《えのう》といいました。

慧能は五祖寺より遠く離れた現・広東省新興県の出身ですが、五祖弘忍の高名を聞き、入門を請うべく尋ねたのでした。慧能を一目見てただ者ではないことを見抜いた弘忍が、試しに問うと悉く答えてしまいました。家も貧しく毎日山で柴を拾って市場で売って生計を立てている、ましてや学問など修めたこともない、そんな慧能が弘忍の問いに答えることができたのは、両者の間に人間の心において共通の認識があったからに他なりません。

その認識とは、人間には学問や財産や地位の有る無しに拘わらない仏の心が本来具わっているということです。それを明確に示すために現れたのが、学問も財産も地位もない慧能ということになるのではないでしょうか。

慧能は後に五祖の法を嗣ぎ、六祖となります。また同じく五祖弘忍の法を嗣いだ者に玉泉神秀《ぎょくせんじんしゅう》という僧がおり、六祖慧能の系統を中国の南に広がったことから南宗禅《なんしゅうぜん》といい、玉泉神秀の系統を北に広がったことから北宗禅《ほくしゅうぜん》と呼ぶようになります。南宗禅は以降大いに発展し、後に日本に伝わったのもこの南宗禅の系統です。反対に北宗禅は神秀以後数代で途絶えてしまいました。

六祖慧能の出現によって、禅宗はその歴史上最も華やかな時代の礎を築きました。指導者としても優れていた六祖慧能は門下に傑出した禅僧を多く育成し、それが後に中国全土に広がりました。特に南嶽懐譲《なんがくえじょう》と青原行思《せいげんぎょうし》はそれぞれ臨済宗と曹洞宗が開かれる南宗禅の大きな二つの流れとなって数多くの傑僧を生み出していきました。

禅の隆盛

馬祖から臨済へ~百花繚乱の時代

唐代はまさに禅宗の最盛期といえる時代で、天賦の禅僧たちがまるで唐三彩の陶器のように鮮やかに時代を彩りました。

先述の南嶽の門下からは、馬祖道一《ばそどういつ》が出て、「平常禅」を提唱しました。現在でも使う「平常心《へいじょうしん・びょうじょうしん》」は馬祖がオリジナルです。「平常」は言い換えれば「ありのまま」。ある程度修行を積んだら、あとは現状を決して否定せず深く肯定して「ありのまま」に受け入れて生きることを示した言葉です。

その馬祖の門下の代表は、百丈懐海《ひゃくじょうえかい・はじょうえかい》です。百丈に特記されるのは「清規《しんぎ・清浄なる規則》」を制定したことです。従来仏教の修行僧は釈尊以来の律(僧侶として守るべき決まり)を守り修行してきました。ですが、インドと中国では気候や文化が違いすぎ、着るもの一つ取っても律を徹底することができません。そこで、中国の風土に合った新しい律のようなものを作る必要がありました。それが清規です。

また百丈は作務《さむ・修行僧の労働》を重んじました。本来仏教では出家者が労働することを許していません。坐禅修行する時間が無くなるからです。だからといって織らずして着、耕さずして食うという修行形態では、中国では認められず度々起こる仏教批判の種となりました。それに対する一つの回答が、労働として衣食のために働くのではなく、あくまで作務として修行の一環として働くということだったのです。

百丈の門下からも多数の傑僧が出ました。その中でも黄檗希運《おうばくきうん》が有名です。師の百丈と同じく、人々と共に田畑を耕し牛馬を駆使する日常生活をすべて修行ととらえ、仏法をその中に見いだそうと試み、馬祖の「平常禅」をほぼ完成の域まで高めたのがこの黄檗です。また『伝心法要』《でんしんほうよう》という説法集が現在まで伝えられています。

その黄檗の門下に、ついに臨済宗の祖である臨済義玄《りんざいぎげん》が生い立ちます。臨済が示した禅は師匠の黄檗のそれをさらに発展させて、仏法とは自身そのものだと明解に見抜くものです。そのために臨済は「喝」《かつ》という言葉をよく使いました。そんな禅のスタイルに到ったのは、急激に増大した社会不安が蔓延する晩唐という時代の影響がありました。戦乱・飢饉・犯罪の横行と巷にはびこる民衆の不安をよそに、王朝内では権力闘争に明け暮れている、世の中がそんな乱れた状態では結局頼れるのは自分です。その自分を直視し信じることを、臨済は語録『臨済録』の中で弟子達に繰り返し説いています。

そしてこの同時代に臨済宗を含め、曹洞宗、潙仰宗《いぎょうしゅう》、雲門宗《うんもんしゅう》、法眼宗《ほうげんしゅう》という五つが成立しました。これを五家《ごけ》といいます。

禅の成熟

風穴から大慧まで~現代まで続く禅の形成

十世紀の初めに長く続いた唐朝が滅び、以後五代十国という戦乱期に入りますが、禅宗は困難な時代の中でも逞しく法を継承していきます。この時期を代表する禅僧には風穴延沼《ふけつえんしょう》がいます。現存する風穴の問答からは苦難の時代といえども法系を絶やしてはならないという気迫が伝わってきます。

宋によって統一され、戦乱が続く苦しい時代を抜けると、禅は再び様々な階層の人々に受け入れられます。唐代の禅が地方に活動していたのに対し、宋代の禅は王朝とその官僚層が主な受容者となりました。国や皇帝のために祈祷の法要をしたり、宮廷で禅の講義をしたりと国家との結びつきが強いのが宋代の禅です。また過去の禅僧の言行をまとめた公案集(禅修行のテキスト)も多く編纂され、それを基に修行を進めるようになりました。

禅僧の名称が漢字四字で形成されていることに気付いた方も多いと思いますが、この表示の形式もこの頃確立されたものです。四字のうち、前の二字を道号《どうごう》、後の二字を法諱《ほうき》と言い、このうち道号を付ける慣習が根付いたのがこの北宋代です。よってそれ以前の道号が付いていない祖師については、この時代に過去に遡って付けました。

十二世紀の初めに北方民族が金《きん》朝を建てると、宋朝も南へ遷り南宋となりました。南宋代も禅宗は栄え、五家の中でも特に臨済宗が楊岐派《ようぎは》と黄龍派《おうりょうは》を生み出しながら、宋代を通じて発展しました。この二派を先述の五家に足すと七つの宗派になるのでそれを七宗といいます。また現在日本に残る臨済宗、曹洞宗の禅の源は、この時期に南宋からもたらされたものです。宋代の著名な禅僧は、公案集『碧巌録』《へきがんろく》をまとめた圜悟克勤《えんごこくごん》、公案禅を大成し一大門派を築いた大慧宗杲《だいえそうこう》、その逆の立場の黙唱禅を提唱し同時代に活躍した宏智正覚《わんししょうがく》が挙げられます。

禅の転換

禅の大衆化

十三世紀の終わり頃、南宋はモンゴルによって滅ぼされます。元朝になると唐宋時代の禅はだんだんと変容し、浄土教との結びつきを強め「念仏禅」として成立しました。以降、明朝・清朝と中国の民衆社会に浸透していき、現代にもその形態で伝えられています。

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